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日本の未来について悲観的な情報ばかりが飛び交う昨今ですが、一筋の光が明滅するのを最近実感します。それは成功企業の中に、アメリカ型経営とは一線を画す日本古来の伝統経営哲学がしばしば見出されるようになったことです。数百年の風雪に耐えて今なお顧客や社会に支持される老舗企業に特有な哲学や経営姿勢が、図らずも若いベンチャー企業群に見出される――その経営の在り方を「主客一如型経営」と名づけ、今後の日本の産業界をリードし、再生に導く存在になり得るものと期待しています。本ブログではこの主客一如型経営に関し、その原動力となる「不変と革新」というキーワードから解明してゆきたいと思います。

名門ウィーン・フィルに転機(下)

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前回の「名門ウィーン・フィルに転機(上)」に引き続いて、「名門ウィーン・フィルに転機(下)」をお届けします。

これは、2008年1月15日のフジサンケイビジネスアイに、私の全44回の連載中の第10回分として掲載されたものです。

 

 

名門ウィーン・フィルに転機(下)

 

前回、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(略してウィーン・フィル)が、実に165年の長きにわたって世界最高の名門オーケストラとして君臨し続けたこと。そして、それは、「不変」と「革新」の識別が的確だったからだということを述べた。

 

今回は、そのウィーン・フィルが、今、大きな転機を迎えていること。そして、それはなぜなのかを述べようと思う。

 

戦後、新興勢力のアメリカを中心に、芸術性より腕達者を評価する「技術偏重主義」が世界のクラシック音楽シーンを席捲していった。

 

その一方で、20世紀後半以降、音楽史に燦然とその名が輝くような巨匠指揮者、天才指揮者たちは姿を消し、指揮者の顔ぶれも全体に小粒となって、世界の愛好家から見れば、オーケストラ演奏を聴く醍醐味は減少していった。

それは、とりもなおさず、才能ある若者のクラシック音楽離れにつながっていった。

 

こうした環境変化の下、ウィーン・フィルは、深刻なジレンマに直面する。

 

演奏至難な現代曲に対応し、技巧派集団の演奏に慣れた世界の聴衆を満足させるために「技術偏重主義」に対応すべきだろうか?

しかし、そうした楽員を国内だけから選抜するのは、才能ある若者のクラシック音楽離れが進む趨勢の中では、もはや難しい。

しかしだからと言って、これまで「不変」の対象として堅持してきた「ドナウ川の水を産湯に使ったオーストリア人男性で、かつウィーンの音大で教育を受けた音楽家から選抜」というルールを緩めて良いのか?

 

果たせるかな、ウィーン・フィルは、なし崩し的にルールを緩めてしまう。オーストリア人でなくても旧ハプスブルク帝国領内の出身者ならよくなり、やがて、帝国領外出身であってもウィーンで音楽教育を受けた白人男性ならオーケーとなってゆく。

そして、ついには、楽器によっては、ウィーンで音楽教育を受けていなくても白人男性なら良いことに。

 

しかし、ここまで崩してしまうと、今度は、外部勢力から様々な要求を突きつけられることになる。「女性が入らないのは差別だ」「白人だけというのはおかしい」など。

 

最も本質的な「不変」の対象として堅持し続けた要素を自ら崩してしまったウィーン・フィルには、もはや、そうした外部からの要求を拒否するだけの正当な理由を見出し難かったのだろうか、結局は、女性や非白人の楽員も受け入れることになったのである。

 

今のウィーン・フィルは、確かに「腕達者」だ。しかし、そこに往年のウィーンの味わいや典雅さは期待しにくい。

 

「不変」と「革新」の識別能力の高さゆえに世界のトップに君臨し続けたウィーン・フィル。その「識別能力」に翳りが見えてきた現在、一体、どこに向かおうとしているのだろうか?

 

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