「ソーシャル時代のジャーナリズムとメディア ダン・ギルモア氏を迎えて」レポート
2011/10/13(木)、大手町で開かれた日経デジタルコア勉強会「ソーシャル時代のジャーナリズムとメディア ダン・ギルモア氏を迎えて」に参加してきた。
昨年も「技術者が語る、テクノロジーと新時代のメディア」という日経デジタルコアの勉強会に参加したことから、このイベントについてもご案内をいただいた。
「メディアとジャーナリズム」の関係性というのは非常に難しい。特に、WEB上には広告で成り立っているメディアが多く、スポンサーが居ないと成立しないそのビジネスモデルから、中立性を保つのに苦労する場面も多い。そこに「ジャーナリズム」のあると言えるメディアというのが果たしていまどれだけ存在するのか。「ジャーナリスト」と呼べる人間はいまメディアにいるのか。それとも、そこはブロガーなどの個人がその役割を担っていくのか。
さて、ダン・ギルモア氏の話。まだ彼の著書『あなたがメディア!ソーシャル新時代の情報術』(当日購入)をほとんど読んでいないので、間違った解釈をしている部分もあるかもしれないが、いくつかコメントをピックアップしつつ、考察&備忘録として本エントリを進めたい。
■「メディアを作ることに誰もが参加できるようになった」
「誰もがクリエイターになったのだ。メディアは既に民主化されている。メディアにアクセスする方法も変わった。」
デバイスの進化や、ソーシャルメディアの普及により、いつでもどこでも情報の受発信ができるような時代になってきた。その情報が集まる場所がメディアというのでれば、たしかにメディアは民のものになった。
しかし、民主政治はともすれば衆愚政治になりうる。個人がメディアを持つというのは、すべての個人が望んでいることではないが、いまやそのためのツールは誰にでも解放されている。それは時として武器になり防具になり、また、毒にも薬にもなる。
最近の「テレビでは放送されていない真実!」だとか、「なぜこの話題をメディアは取り上げないのか」といった風潮などを目にするにつけ、いままで視聴するだけだった受け手側の人間が、ソーシャルメディアの普及や3.11以降の政府やメディアの対応への不満を期に、発信側の視点を持ち始めたのかもしれないと思うことがある。だが、実際はそれが報道されているのを見ていなかったりするだけのことも多い。また、メディアに取り上げられれば良いという話でもないだろう。発信をする前に、ちょっと調べるとか、一度自分の中で考えをまとめる、ということも重要視されていって欲しいなと思う。
そういう点で、彼の今回の著書が、そのリテラシーを育む本として書かれたものであるらしい。本書の「はじめに」に、クレイ・シャーキーという研究者が下記のような文を寄せている。
「市民として、消費者として、ニュースを私たちに役立つものにするために、ダンの提案は極めて野心的だ。私たちがメディアクティブ――メディアの“行動する利用者”――となり、メディアリテラシーの理念を取り入れながら生活していくことを思い描く。どんなメディアであっても、リテラシーとはメディアの読み取り方を理解するだけではなく、そのつくり方が分かり、そしてメディアの良し悪しが判断できることを意味する。」
■「一方で新聞はどうかというと、ニュースが作られるとそれが大量生産されて、運ばれて行く、古いシステム。」
このコメントを聞いて、新聞は製造業なんだな、と思った。モノを作るという観点ではそれでもいいかもしれないが、「情報」を求める(届ける)早さはそんなものではもう追いつかないだろう。
日経もこうした状況に危機感を覚えてデジタル化に舵を切っている。先日は電子版の利用者が100万人を突破し、そのうち15%が有料会員だというリリースがあった。当初の目標数値は下回っているようだが、個人的な感覚としては結構多いなという印象を受けた。比較対象として正しいかは分からないが、ニコニコ動画の有料会員は確か6%くらいである。
ただ、過去の「日経電子版、100万人突破 幅広い世代が利用」という日経の電子版のニュースを漁ったら、該当の記事はどうやら削除されているようだった。有料会員ならアーカイブを見れるのだろうけど、それも件数制限があるらしい。ITmediaや@ITは10年前の記事も残しているし、それがストックされていることが資産になっているのだけども、このあたりの考え方は大きな違いがあるな。今後それがどう影響していくのかは分からないけれど、ネットメディアは速報性だけでなく、蓄積、検索、そしてシェアできるところにメリットがあると思っている。ソーシャル上での波及という観点でも、一読者としても、過去記事が自由に見られないというのは不便でしかない。
■尖閣諸島の動画公開の件について
参加者 「政府はデータを隠そうとした。一部の国会議員だけが見ることができた。そこから個人が勝手に流出させた。」「メディアの人間は「職務」として報道をやっているが、いまや「ジャーナリズム」をモットーに働いているわけではないメディア人も多くいる。一方で、上記のような、メディアが本職ではない人間が、「これは伝えるべきだ」として情報発信をする時代になって来た。これからはそうした「ジャーナリストのハート」を持っているかどうかが今後重要になるのか?」
ダン・ギルモア氏 「情報を持っていて、それを公開してはいけない場合がある、という状態でそれに従わないというのは、「不服従」という。それ自体は法で問われることかもしれない。しかしこのケースは個人的には拍手をしたい。」
「「知っていることを伝えたい」というのは人間の本性である。それが国に関わることであれば尚更だ。YouTubeへのアップではなく、情報源がわからない方法で情報を伝える手段をとれれば良かったかもしれない。今後はそうした手立てがもっと出てくるのでは。いずれにせよ、隠しておくことができない時代になってきた。ネガティブなこともあるが、ポジティブなことも多いのではと思っている。たとえば「我々の税金を何に使っているのか」といったことをもっと透明性をもって知れるようになると良いのではないか。おそらく時代はそういう方向になっている。」
「誰がジャーナリストなのかということよりも、ここで問われるべきは、「ジャーナリズムとは何か」である。その観点で言えば、情報源の秘匿は、そのひとを守るということだけではなく、「ジャーナリズムを守る」という点で重要なのではないか。」
■メルトダウンの公表について
参加者 「知らされるべき情報とそうでない情報もあるのでは。例えばメルトダウンが地震直後に実際に伝えられているとどうなったか。」
ダン・ギルモア氏 「震災時の日本の皆さんの行動を見ると、伝えてもパニックにはならなかったのではないか。また、ジャーナリストとしては、重要な情報を知った時点で、それを国民に伝えないということはありえない。ただし、その伝え方は工夫するだろう。アメリカの放送では日本の災害をまるでメロドラマのような伝えかたをしていた。放送の形として正しくない状態のところが多かったかもしれない。日本の放送はそういう点では非常に冷静であった。」
上記の発言の際、「その情報を伝えることに、どのような意義があるのか。」ということを仰っていたが、まさにそれが「メディア」や「ジャーナリズム」の根幹の部分だと感じた。