2030年、生成AIは「人間」より高価になる
ガートナーが2026年1月26日に発表した予測は、これまでの企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)戦略を根底から問い直す内容を含んでいます。同社の分析によると、2030年までに生成AIによる顧客対応の「解決単価」が3ドルを超え、多くのB2C向けオフショア有人エージェントのコストを上回る見通しです。これまで「AI=コスト削減」という図式で語られてきたカスタマーサービス領域において、データセンター費用の高騰やAIベンダーの収益化への転換が、その前提を崩しつつあります。
この予測は、単に技術のコスト構造の変化を示唆するだけではありません。消費者の「人間による対応」への回帰や、規制による法的要件の厳格化が重なることで、企業は顧客接点の設計思想そのものを再定義する必要に迫られています。本記事では、AIコストの逆転現象が起きる構造的要因、規制がもたらす有人対応の再評価、そしてコストセンターからプロフィットセンターへと転換を図る先進企業の新たな戦略について取り上げたいと思います。

「AI=安価」という神話の崩壊と構造的要因
生成AIの導入が急速に進んだ背景には、労働集約的なカスタマーサポート業務を自動化し、大幅なコストダウンを実現できるという期待がありました。しかし、ガートナーの予測は、この楽観的なシナリオに冷ややかな視線を投げかけています。2030年までにAIによる解決単価が3ドルを超えるという試算は、AI運用コストが加速度的に上昇している現実を反映しています。
背景にあるのは、AIモデルを稼働させるための計算資源とエネルギーコストの高騰です。初期の生成AIブームにおいては、ベンダー側が市場シェア獲得のためにコストを負担し、ユーザー企業は本来の価格よりも低いコストで利用できていました。現在、AIベンダーは成長フェーズから収益化フェーズへと舵を切っており、これまで隠されていたインフラコストが価格に転嫁され始めています。
さらに、企業がAIに求めるタスクが高度化している点もコスト増の要因となります。単純なFAQ対応ではなく、複雑な文脈理解やパーソナライズされた回答を生成するためには、より多くの「トークン」を消費し、高度な処理能力が必要となります。結果として、AIは決して「安価な労働力の代替」ではなく、維持運用に多額の投資を要する「高コストな資産」へと変貌しつつある状況です。
「人間と話す権利」がもたらす揺り戻し
AIコストの上昇に加え、企業経営に重くのしかかるのが「法規制」と「消費者の反発」です。ガートナーは、2028年までにAI関連の規制変更により、有人によるサポート対応量が30%増加すると予測しています。欧州を中心に議論が進む「人間と話す権利(Right to talk to a human)」は、企業が効率化のために推し進めてきた「AIによる導線封鎖(人間の担当者に繋がらない仕組み)」を無効化する可能性が高いといえます。
消費者はすでに、融通の利かないチャットボットに対し疲弊し始めています。法規制が整備され、AIエージェントを回避して人間に繋ぐ権利が保障されれば、多くの顧客がデフォルトで人間を選択するようになるでしょう。これは、企業が削減しようとしてきた有人窓口の維持、あるいは再拡大を強いることになります。
この流れは、企業にとって「二重のコスト負担」を意味します。高騰するAIシステムへの投資を継続しつつ、同時に規制対応と顧客満足度維持のために、人間によるサポート体制も強化しなければなりません。かつて安価な労働力として捉えられていたオフショアの人材が、相対的にコストパフォーマンスの高いリソースとして再評価される皮肉な状況が生まれると考えられます。
コスト削減から「価値創出」への戦略転換
AIによるコスト削減の限界が見え始めた中で、一部の先進企業はすでに戦略の大転換を図っています。ガートナーの予測では、2030年までにフォーチュン500企業の10%が、AIを活用して超個別化された体験を提供するために、カスタマーサービスへの支出を倍増させるとされています。これは、AIを「コスト削減のツール」ではなく、「競争優位を築くための投資」と捉え直す動きです。
これからのAI活用において重要となるのは、トラブルシューティングの効率化ではなく、顧客エンゲージメントの深化です。顧客の購買履歴や行動データをリアルタイムで解析し、問い合わせが発生する前にプロアクティブ(能動的)な提案を行うなど、AIにしかできない付加価値を提供することが求められています。
ここでは、コストの多寡ではなく、LTV(顧客生涯価値)や再購入率、ブランドロイヤルティの向上がKPIとなります。AIの運用コストが高額になろうとも、それがもたらすリターンがコストを上回れば投資は正当化されます。つまり、カスタマーサービス部門は、コストを最小化する「守りの部門」から、収益を生み出す「攻めの部門」へと役割を進化させる必要があるのです。
高度化する人材要件と実装の難易度
AIを価値創出の源泉とするためには、単に高価なツールを導入するだけでは不十分です。AIモデルのトレーニング、データの整備、そしてAIが出力した内容の品質管理を行うためには、高度な専門知識を持った人材が必要となります。ガートナーのアナリストであるパトリック・クインラン氏が指摘するように、成功のためには「データ、技術、人材」への投資が不可欠です。
かつてカスタマーサービス部門のマネジメントは、オペレーターの採用とシフト管理が主たる業務でした。今後は、プロンプトエンジニアリングやデータ分析、AI倫理に精通したテクノロジー人材の確保が重要となります。こうした高度人材の獲得競争は激化しており、人件費の上昇圧力はオフショアのオペレーターコストとは比較にならないほどの規模になることが想定されます。
多くの企業にとって、完全自動化は経済合理性に欠ける選択肢となりつつあります。AIにすべてを任せるのではなく、AIが得意とするデータ処理と、人間が得意とする共感や複雑な判断をどう組み合わせるか。その「協働のオーケストレーション」を設計できる能力こそが、これからの企業の競争力を決定づけるでしょう。
今後の展望:二極化するサービス品質と経営判断
2030年に向けて、企業のカスタマーサービス戦略は明確に二極化していくと考えられます。一方は、高騰するAIコストを回避し、比較的安価なオフショアの人的リソースを中心とした「従来型サポート」を維持する企業群。もう一方は、コスト増を許容した上で、AIによる超個別化と高度な有人対応を組み合わせた「プレミアムな体験」を提供する企業群です。
中途半端なAI導入は、コスト削減も顧客満足も達成できない「投資の失敗」に終わるリスクが高まっています。経営者は、「自社のサービスにおいて、AIはコストダウンの手段なのか、それともブランド価値を高めるための投資なのか」という根源的な問いに対する答えを明確にする必要があります。
次なるアクションとして推奨されるのは、現在のAI導入計画におけるROI(投資対効果)の再計算です。人件費との単純比較ではなく、規制リスクや将来的なトークンコストの上昇、そして「顧客体験の質」を数式に組み込むことが求められます。安易な自動化への依存を脱し、人間とAIの最適な役割分担を再設計することこそが、持続可能な競争優位を築く鍵となるのかもしれません。