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真の立身出世はショスタコーヴィチ自身? - バビ・ヤール

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「バビ・ヤールには墓碑銘もない...」 衝撃的な歌詞で始まるショスタコーヴィチの交響曲第13番、通称「バビ・ヤール」。東西冷戦で緊張状態のフルシチョフ時代のソ連(作曲年はまさにキューバ危機の年)にあって、本当にこんな作品が許されたのか、という問題作である。もちろん、歌詞がやばくて歌手が辞退したり、その代役も逃げ出したり、当局の指示によって、歌詞を変更させられたり、といったなかでの演奏だったのだけれど、スターリン時代を生き残った大御所だからできたことなのか。

作品は、交響曲でありながら、男声合唱とバリトンソロがつき、全編エフゲニー・エフトゥシェンコによる詩を歌う。合唱つきの交響曲といえば、年末恒例のベートヴェンの第9や、マーラーの8番「千人の交響曲」、「大地の歌」が有名だが、それらとは明らかに異なる風変わりな曲だ。

とにかく全編、体制批判か、スターリン批判か?と思わせる表現がちりばめられ、陰鬱な音楽と風刺的な軽妙タッチが同居する。声楽は歌というより語りだ。普通に聴くと、多分に政治的メッセージを持った作品という印象を受けるが、純粋に音楽として聴くと、そこに美しさが透けて見えるから不思議。

政治性を感じさせる歌詞だけれども、冒頭でバビ・ヤールのユダヤ人虐殺をとりあげ、その後、圧政の中でもユーモアだけは押さえつけることはできないとか、ソ連名物のレジで行列を作る女性たちやら、社会に潜む恐怖を歌う。最終楽章では、「ガリレオ・ガリレイが真の立身出世を果たしたのは、彼が立身出世を望まなかったからだ。多くの科学者は地動説が正しいと知っていたが、立身出世のために真実を隠した。だから彼らは立身出世できなかったのだ」みたいなことをいう。どうみても、鉄のカーテンの中で、真実を圧殺してきたことを想起してしまう。

一般的に、時の政治に大きく関与するような作品は、時代を写す鏡としての価値以上のものを見出しにくい、という状況に陥りがちだ。そこから、普遍性のようなものにまで昇華しきれていないと、時流の変化によって色あせていく問題意識が、作品まで色あせたかのように見させてしまうものだ。

ショスタコーヴィチの場合、これに当てはまるのかどうか。歌詞が歌詞だけに、バイアスがかかってしまうのだが、音として捉えると別のものが見えてくる。おそらく、イデオロギー的なものを中立的に見ることができるようになってはじめて、こうしたバイアスを一切排除して評価できるようになる作品なのだと思う。

こんな人々を迷宮に誘い込むような果敢なプログラムが、先週サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー、テミルカーノフ指揮の演奏会で取り上げられた。果たしてチケットは全部はけるのだろうか、という心配をよそに、多くのショスタコフリークたちとロシア大使館関係者を含む満員の聴衆の中、この難解な作品を快演した。透けてくる美しさは秀逸だった。

会場には、電光掲示板が設置され、歌詞の日本語訳が映し出されていた。音に加えて、理解できる文字として、衝撃的な言葉がリアルタイムに目に飛び込んでくるのは、思いがけずすばらしい演出効果であった。政治性が前面に出てきてしまうのだけれど、それと純音楽が対峙しているような感を覚えた。歌詞カードを見ながらCDを聴くのとは違った感動だ。

蛇足:
一般的に終楽章は、「出世(Career)」と訳されている。しかし、電光掲示板には、何度も「立身出世」と表示された。「これが真の立身出世なのだ」なんて表示され、一瞬「功名が辻」が頭をよぎり、ちょっと笑った。

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