分類は分かることの第一歩
先日、「お勉強のお作法」で、分かること」と「分かりたい動機」について、少し触れました。今日は、このうちの「分かること」に関して、ちょいとアカデミックな側面から。
ものごとを理解するときに、人はなんらかの枠組みに当てはめてそれを認識しようとします。言語はそれを規定する重要な装置ですね。古来から、学問は「分類する」ということで、ものごとを理解しようと努めてきました。「科学」という言葉自身が、「分類」という意味を含んでいます。
しかし、分けることと実体は同一ではありません。では、なにが実体なのか、モノを存在たらしめているのか、というはなしになると哲学的な議論になってしまうのですが、今日はそこまで踏み込まず、分けることに潜む、「分かること」のヒントを考えてみようと思います。
モノを分類するときには、そのモノの同じところと違うところに着目します。共通項をくくりだし、ひとつの分類にし、その中で、違いを見つけて、小さい分類に入れ込みます。例えば、哺乳類というくくりの中で、爪のかたちが違うとか、食べるものが違うとかで、分類していきます。そして、新しいモノを理解しようとするときには、まずこの共通項を探すわけです。そして、共通の土台の上で、その差異に着目し、新しい発見をします。
気をつけなければならないのは、共通項を探し出す操作は、新しいモノ、違ったものを、既成概念に押し込める操作ではないことです。「今時の女子高生は...」といったからといって、いろいろな女子高生を理解、認識していることにはなりません。女子高生というステレオタイプに押し込めて、分かった気になるだけですね。再び哲学的な議論に戻ってしまいそうですが、われわれの分類によって、モノは存在しているわけではありません。分類はあくまでも便宜上。極端な話、地動説も天動説も、その延長線上の議論です。惑星は、物理の公式に基づいて動いているのではなく、物の動きを数式で説明して見せたのが、物理学ですからね。
モノを分類することは、むしろ、その枠にはまらないことを発見する過程です。既成の枠でモノをはかり、その枠で理解しようとする行為が、結果的にその枠を超えて、新しい概念を作り上げるのだと思います。
ちょっと難しい話になってしまいましたが、日々の活動で皆さんが体験しているよい例があります。Googleなどで検索するとき、キーワードを指定しますよね。どっからこんな情報もってきたんだ、ていうようなうまい検索をする人は、第2検索キーワードが光っているようです。共通項から違いを見つけ、そこから新しい情報を引き出していく。ネット検索は、古くからある図書分類の限界を大きく打ち破るものだけに、その行為自体にも、「科学」のエッセンスが隠されているのかもしれません。