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【書評】『デモのメディア論』

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筑摩書房さんから、伊藤昌亮氏の『デモのメディア論: 社会運動社会のゆくえ』をいただきました。ありがとうございます。というわけで、いつものようにご紹介と感想を少し。

デモのメディア論: 社会運動社会のゆくえ (筑摩選書) デモのメディア論: 社会運動社会のゆくえ (筑摩選書)
伊藤 昌亮

筑摩書房 2012-12-12
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2012年も残すところ数日となりましたが、今年の日本社会を象徴する出来事の一つとして、様々なイシューをめぐって行われたデモが挙げられるでしょう。特に夏場に行われていた「官邸前デモ」には多くの参加者が集まり、最終的に野田前総理大臣がデモの代表者と面会する、という珍しい状況も生まれました。珍しいという点では、いわゆる「サウンドデモ」やネットを活用した抗議活動など、従来型のデモとは異なる特徴が見られるようになってきています。

思い返してみれば、一年前の2011年には世界各地でデモの嵐が吹き荒れ(「アラブの春」や米国のオキュパイ運動など)、米タイム誌はパーソン・オブ・ザ・イヤーに「プロテスター(抗議する人)」を選んでいます。その波が日本にも到達したのが2012年だった、と捉えることができるかもしれません。そして本書『デモのメディア論』は、こうした近年のデモ活動について考察を行った本です。2011年から12年にかけ、いったい日本と世界で何が起こっていたのか。主なデモに関する情報が詳しくまとめられており、一連の抗議活動について正しく理解するために、非常に役立つ一冊と言えるでしょう。

そして本書のユニークな点は、タイトルの通り「デモをメディア論の視点から考える」というアプローチです。デモという行為について考える時、「彼らは何を抗議しているのか」と問いかけるのが普通のアプローチでしょう。しかし伊藤氏は、デモという行為を行うこと自体にメッセージがあり、そこに注目することで最近のデモ活動に対する正しい理解が行えるのだと主張します。長くなってしまいますが、関連部分を引用してみましょう:

 今日の社会運動社会の構成を分析し、昨今のデモのあり方について考えてみようとする場合、このようにそこで表明されているデモのメッセージに目を向けてみても、そこから何らかの有意な特徴や新しさが浮かび上がってくるわけではない。一方でそこで採用されているデモのスタイル、そこで活用されているデモのツールに目を向けてみると、これら一連のデモのあり方に通底している共通の特徴、共通の新しさがはっきりと浮かび上がってくる。それらはこれから詳しく見ていくように、「お祭りデモ」と「占拠デモ」というその新しいスタイルであり、SNSをはじめとするソーシャルメディアというその新しいツールである。

 つまり昨今のデモの本質的な新しさは、そこで表明されているメッセージの中にあるわけではなく、むしろそこで採用されているスタイル、そこで活用されているツールの中にこそあるのではないだろうか。いいかえれば今日の社会運動社会の本質的な特徴は、デモを通じて訴えかけられているメッセージの中に集約されているわけではなく、むしろデモというメディアのあり方それ自体、そこに取り入れられているスタイルやツールの中にこそ凝縮されているのではないだろうか。そうしたアプローチに基づいて昨今のデモのあり方について考え、今日の社会運動社会の構成を分析してみようというのが本書の眼目である。

米国でオキュパイ・ウォールストリート運動が起きた時、CNNのキャスターであるエリン・バーネット氏は「彼らはそもそも何に抗議しているのでしょう」とコメントしました。しかしデモ(しかも従来型のデモ行進ではなく、オキュパイのような「占拠デモ」や「サウンドデモ」)というメディアを選択すること自体にメッセージが含まれているのであれば、マクルーハンの有名な言葉「メディアはメッセージである」ではありませんが、彼女の批判は的外れなものとなります。少なくとも参加者たちにとっては、オキュパイという運動に参加している時点で、何らかの満足感が得られるものだったのでしょう。

このような視点で考えた場合、「なぜあれほど反原発デモに多くの参加者が集まったにも関わらず、先日の選挙で脱原発が票を集めなかったのか」という疑問に対して一つの答えを得ることができるでしょう。つまり「反原発」というメッセージの側よりも、むしろ「デモ」という行為の方に大きな意味があったのだとすれば、選挙という別の社会機能に対して大きな影響を及ぼさなかったのは不思議ではありません。

また伊藤氏は、最近の抗議活動が従来のような「社会に何かを求める運動」から「社会を創り出す運動」へと変化してきていると主張します。米国のオキュパイ運動では、占拠した公園の中で様々なコミュニティ運営が行われ、まさしく一種の「社会」とも呼べる空間が構築されていました。仮にこうした社会創造こそが最近のデモ活動の主たる機能であるならば、改めて、そこでの大きなうねりが(直接的には)選挙には何ら影響を与えなかったように見えるのは当然のことでしょう。もちろん今回の選挙結果については様々な原因が考えられますが(そもそも原発より経済の方がメインイシューだった、というような説には説得力があります)、メディアとしてデモを捉えた場合には、こうした説明も可能になってきます。

デモという行為が、2013年以降の日本社会でも続いてゆくのかどうかは分かりません。しかしそれがメディアなのだとすれば、仮に「官邸前デモ」のような動きが途絶えたとしても、訴えようとしていたメッセージ(必ずしも「反原発」のように明示的に掲げられているものとイコールとは限りません)が社会の中から消えるのではないと言えるでしょう。デモが消えようと消えまいと、それが日本社会にとってどんな意味を持ち、今後どのような影響を残そうとしているのか。本書はこの問いに答える上で、大きなヒントを与えてくれる一冊だと思います。

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