【書評】心を支配するものとしての身体"How the Body Knows Its Mind"
主人公が手術によって脳を取り出し、思考だけの存在になって生き続ける。あるいは脳の中にある情報をすべてネットにアップロードし、デジタルな存在として進化する。SFにはこうした思考と肉体の分離がよく描かれますが(個人的にはやはり攻殻機動隊が思い出されるところです)。しかし残念ながらこれはSFだけの話で、実際には心と身体は不可分であるということが、様々な研究によって明らかになっているのだとか。本書"How the Body Knows Its Mind"は、そうした意外な心と身体の関係を解説した本です。
How the Body Knows Its Mind: The Surprising Power of the Physical Environment to Influence How You Think and Feel Sian Beilock Atria Books 2015-01-06 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
著者のシアン・バイロックさんはシカゴ大学の教授。心理学者で、『なぜ本番でしくじるのか』という本も書かれています。
「心と身体は不可分である」などというと高尚ですが、考えてみれば私たちが日常的に体験していることです。身体が疲れている時は頭もさえない、よく寝た朝は気分がすっきりしている、などというのは当たり前の話ですね。しかしそうした明らかな影響以上に、私たちの心は自分の身体から影響を受けていることが、様々な事例や実験を通じて描かれます。
たとえば表情と心の関係。楽しいから笑う、悲しいから泣くなどというように、「心が表情を動かす」というのが通常の考え方です。しかし「笑う門には福来たる」などというように、表情をつくっていればその通りに心も変化する、つまり「表情が心を動かす」という例も数多く見られることが分かっています。しかも「笑顔にしていると何となく気分が良い」というレベルの話ではありません。美容外科の世界にボトックス注射(ボツリヌス菌の毒素を利用し、筋肉を弛緩させてシワなどを取る処置)というものがありますが、これを利用してうつ病患者の険しい表情を和らげたところ、症状を軽減する効果が見られたそうです。
関連の日本語記事があったので、ちょっと引用しておきましょう:
■ 美容整形の注射でうつ症状が改善する可能性(apital)
抑うつや悲しみで顔をしかめると、眉間にしわが寄る。A型ボツリヌス毒素で眉間のしわを改善することにより、一種のリラクセーションと類似の効果をもたらしたり、自分の顔を鏡で見た際の印象が改善したりすることなどで、うつ症状が改善した可能性を著者らは指摘している。
著者らはまた、抑うつ気分が顔の表情に出るだけではなく、逆に、顔の表情が抑うつ気分に影響を与える可能性があることを、今回の結果は支持するものだと考察している。
また以前TEDで話題になった、社会心理学者エイミー・カディさんらによる研究も紹介されています。こちらは表情ではなく、姿勢やポーズが心理状態に影響を与えるというもの。たとえば被験者に「力強いポーズ」を2分間取ってもらうだけで、自信に満ち、リスクを取る行動に出る傾向が見られたそうです。これは単に意識上の変化だけでなく、身体を確認したところ、男性ホルモンの一種であるテストステロンの分泌も増加していたのだとか。テストステロンはやる気や自信やを促す機能があるそうですから、仮に身体の動きにホルモンの分泌を左右する力があるのだとすれば、「心>身体」だけでなく「身体>心」という方向の反応も不思議ではないことになります。
念のため、カディさんによるTEDスピーチをリンクしておきましょう。 非常に興味深い内容なので、未見の方は是非:
他にも身体を動かすことや周辺環境の変化によって、記憶力や読解力、数学能力が向上したり、影響を受けたりした事例が数多く取り上げられていて、読んでいるうちに自分の思考がどこまで頭で考えた結果なのか、それとも身体からの刺激によるものなのか、訳が分からなくなってきます。僕が今日こんなにもやる気が出ないのは、窮屈なオフィスで背中を丸めて仕事しているからではないのか……?
それはともかく、「身体>心」という方向にも矢印が向いているのだとすれば、なぜそのような構造になっているのでしょうか?ひとつの考え方として、本書では面白い話が紹介されています。それはホヤの「脳」について。岩などにくっついて移動することのないホヤですが、幼生の時期はオタマジャクシのような姿をしていて、活発に動き回ることができます。そして固着する場所を見つけると成体に変化し、その後は動き回ることはありません。ここで面白いのは、幼生期には「脳」に相当する器官があるにも関わらず、成体になるにつれて消化され、消えてしまうという点。つまり脳とは元々、肉体を動かすために発達してきた存在で、「もうここから動かない」と決めたホヤにとっては無用の長物になるわけですね。
進化においてスクラップ&ビルドが生じることはなく、様々な機能が、過去の進化で得てきた肉体の上に実現されていきます。たとえば鳥の飛行を可能にする、羽毛や軽い骨といった特徴も、別に飛ぶことを目的として生まれたわけではなく、体温の維持や身体の大型化といった目的のために生まれた構造が、たまたまその後の「飛ぶ」という動きに利用されていったのではないかという説があります。そう考えると、身体の動きが心に影響するというのも、別に驚きではないのかもしれません。進化の過程において、身体を動かすために既に登場していた脳を、「思考」の器として代用するようになっただけかもしれないのですから。実際に物語を読んでいる時や、テレビでスポーツを見ている時の脳を調べると、身体の動きを司る部分が活発に活動しており、脳の中では「思考」と「行動」をあまり区別していないことが分かるそうです。
頭の中で計算する時に指が動いてしまうとか、電話で話す時にもゼスチャーしてしまうといった行動も、こうした背景を理解すれば不思議ではありません。つまり身体の動きから思考を導き出しているという方が(進化の流れから言えば)普通であり、無理に抑えない方が、脳を動かしやすいわけですね。実際に本書の中では、脳の中で身体を動かす機能が失われた時、計算能力まで失われてしまった患者の話も登場します。またそこまでのレベルでなくても、「身振り手振りができた方がプレゼンがスムーズに行える」といった感覚を抱いている方は多いのではないでしょうか。
本書ではこうした研究成果を踏まえ、「プレゼンのセリフを覚える際は、身振り手振りをつける方が覚えやすくなる」「相手の心を理解するには、彼/彼女の表情や姿勢などを真似してみて、どんな感情が沸いてくるか考える」など日常的に使えそうなアドバイスも紹介しています。社員のモチベーションや生産性を高めるために、オフィス環境を工夫するという取り組みは以前から行われていますが、今後はもう一歩進んで、身体に働きかけることで心を動かしていくという工夫が日常的に行われるようになるかもしれません。とりあえず会議やブレストで煮詰まったら、オフィスを出て身体を動かすというのは鉄則ですね。