【書評】イノベーションを殺す「クロノス」とどう付き合うのか――『マスタースイッチ』
ガレージで生まれたベンチャー企業が革命を起こし、それに対応できなかった大企業を葬り去ってゆく。多くのイノベーション理論で当然のように論じられている情景ですが、このシンプルな方程式は、現実においてどのように作用するのでしょうか。攻撃を受ける既存企業は本当に「座して死を待つ」だけなのか、その力で運命を歪めることはできないのか――『マスタースイッチ 「正しい独裁者」を模索するアメリカ』は、米国の情報/メディア関連産業の歴史を振り返りながら、企業・社会・イノベーションの3つがどのような力学で動くものなのかを考察した一冊です。
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結論から言うと、必ずしもイノベーションが既存の業界構造を崩すことは運命づけられたものではなく、大企業が新興勢力を押さえつける「クロノス現象」も起きやすいと著者のティム・ウー氏は主張します。
ギリシャ神話には、世界の支配者クロノスの話がある。いつか自分の子によって支配者の座から引きずり下されるという予言を聞いたクロノスは、子供がいないにもかかわらず、毎日が不安で仕方ない。ある日、妻が身ごもったと知り、気が気でなくなる。やがてクロノスは生まれた子供を取り上げ、食べてしまう。妻が身ごもるたびに、生まれた我が子を食らい続ける……そんなクロノスの亡霊が今も生き続けている。支配的な企業が、次代を担う若い企業を潰してしまう現象だ。
例えば――自らが牛耳る電信産業が脅かされないようにするため、電話という新発明を受け入れる姿を見せつつ骨抜きにしようとした19世紀後半のウエスタンユニオン社。AMに代わる優れた放送技術としてFMの発明を許しながら、それが既存のラジオ業界を一変させる可能性を感じるや、一転してFMを葬り去った「メディア王」デイビッド・サーノフ。1930年代に自らの研究所で磁気テープと留守番電話の発明に成功しながら、「人々が電話を使わなくなる」と危惧してそれを握りつぶしたAT&T、などなど――本書には数々の「クロノス」が登場します。
また新しい技術・新しいメディアは現状を打破し、一般の人々の手に新たな力と自由をもたらすものと期待されながら、「いつのまにか企業連合や大企業の息がかかったメディアに変わり果ててしまう」というのも典型的な「サイクル」であるとウー氏。それは最新のメディアであるPCやインターネットも例外ではなく、最近のインターネット中立論や、iPhoneを始めとした「家電型」情報端末が例として挙げられます。この辺りは、2年前に話題となったジョナサン・ジットレイン教授の『インターネットが死ぬ日』を思い出す方も多いでしょう。
誤解を恐れずに言えば、「クロノス」が生まれるのは悪いことばかりではありません。独占企業によって通信インフラが安価・安定的に提供されるということもありますし、アップルは閉鎖的な体制を構築することで、ユーザーには秩序と安心を与えることに成功しています。消費者という立場だけから見れば、恩恵を受けていると感じられる場面は少なくないでしょう(特にiPhone5を手にしたばかりというような方々には)。実際にこうしたメリットを旗印として、既存企業が政府や社会に働きかけ、自らの独占体制を強化するような制度や仕組みを築き上げるケースが多々あることが本書で指摘されます。
しかしそうした独占によって私たちが失うものは、決して小さくないとウー氏は主張します。言論や表現の自由、革新的なアイデア、社会を前進させるような工夫などなど――そうしたものを「クロノス」の犠牲にさせないためにも、社会が明確な意志を持って独占に対処してゆかなければならないと、強い調子で論じられます。著者の意見にどこまで賛同するかは別にして(実際に原著に対しては賛否両論が投げかけられたとのこと)、企業・社会・イノベーションの3者は微妙なバランスの上に成り立っているものであり、さじ加減一つで私たちの未来は大きく変わり得ることが実感できるでしょう。
他にもイノベーションがどのように発生してくるのか、既存技術とどのような関係を持つのか、どんな時に広く普及するのかを考察した個所や、情報メディアという技術が持つ独特な性質を考察した箇所などがあり、米国の情報メディア産業史という軸を中心にして様々な読み方ができる一冊です。イノベーションで革命を起こしたいベンチャー企業、他者のイノベーションに飲み込まれてしまうことを避けたい大手企業の双方にとって、有益な内容ではないでしょうか(もちろん既存企業が「クロノス現象の起こし方」を学ぶために読むというのでは困りますが)。
ちなみに「日本版へのまえがき」では、ティム・ウー氏は日本の情報メディア産業についてこんなコメントをしています:
日本でインターネットや通信関連のイベントに足を運ぶと、おもしろい傾向に気づかされる。日本の大企業による将来計画は大胆さがなく、とにかく慎重なのだ。慎重であることは基本的に悪いことではないが、慎重も行き過ぎると産業の新陳代謝は止まってしまう。小さなアイデアの芽が大輪の花を咲かせる可能性はほとんどなく、大企業ではない"部外者"が、奇想天外なアイデアや過激なアイデアを実現し、世界的な企業に育て上げることは難しい。それどころか、未来はきっちりと計画され、常に想定内のものとなり、最終的に停滞へと向かう。新たな成長を実現させるためには、今の状況を根本から変えなければならない。
ウー氏の目から見れば、日本でも「クロノス現象」があちこちで発生しているように見えるのでしょう。ただ個人的には、攻撃的に若い企業を潰すという姿勢だけでなく、脳と筋肉の両方が硬化して何もしなくなる「老化現象」と呼ぶ方が適切な場合もあると思いますが……ともあれ、前述の通り本書は米国の状況をテーマにしたものではありますが、日本の私たちにとっても教訓となる普遍性を持った内容となっています。「読書の秋」の課題本として、一押ししたい一冊。
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