「開発」
開発
最近コーチングのクライアントと話していて「開発」という言葉で大いに盛り上がりました。ちょうど我々は「リーダーシップ"開発"」について考え方のすり合わせをする必要があって、「そういえば、開発って簡単に使っちゃっているけどどういうことなんだろうね。」ということがこのテーマの入り口でした。
私たちはバックグラウンドが少しだけ似ていて("システム開発"という仕事に携わっていたことがある)、この「開発」という言葉になんらかの概念をもっているんだと思います。すかさずその方が「ちょとまってよ。」と言いながら「開発」という文字をGoogleで検索してこのWikipediaの記述にたどり着きました。
さらに興味を持ったクライアントは、とあるページにたどり着き、「なるほど。」と画面を凝視しながらしばらくじっとその内容に見入っていました。
開発(かいほつ)
仏教で用いられる開発(かいほつ)は、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開きおこし、まことの道理をさとることを意味する言葉です。それが現在では開発(かいはつ)と呼ばれて一般化しています。そういう使われ方は、かなり古い時代から、たとえば「新田開発」などのように使われています。人の手が入っていない原野などの未開地を新しく開墾する際に使われたのでしょう。
明治以降は、それがより大々的に「北海道」開発、「満蒙」開発、地域開発などという極めて政治的な、時として侵略的な国家プロジェクトとして開発(かいはつ)の言葉は一世を風靡しました。戦後の高度経済成長期においても、私たちの現世的な幸福の代名詞として使用されてきました。
しかし、仏教でいう開発(かいほつ)は、そういう開発(かいはつ)とは全く違って、たとえば、日本の場合でいえば、アジアの自然と労働力を踏み台にし、人間としての豊かな感性まで見捨てて生きる、ある意味での開発(かいはつ)至上主義者として突っ走る私たちを根本から問う言葉です。
いまアジアの仏教者の中には、仏教が明らかにする万人共生の大地に目覚めて、社会のあらゆる問題(貧困・環境・エイズ問題等)に関わりをもち物心両面の開発(かいほつ)に取り組む開発(かいほつ)僧、尼僧が活躍しています。尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授
月刊『同朋』2003年10月号より
東本願寺HPより
クライアントとのやりとりからは離れて、その後に自分の中で考えたことを書いてみようと思いますが、そもそもの「開発」の意味や目的は物の生産を増やして所得を増加させるといった、経済的、社会的発展などの物質的な発展のみならず、人間性そのものの開発とその人間性に満ちた社会の開発、ということのようです。
「組織開発」「リーダーシップ開発」とよく「開発」という言葉を自然と使ってしまっていましたが、ここで立ち戻って改めて考えてみると
- 心を開いて、新しいものに出会うこと
- 自分以外の考えを持った人と触れ合うことにより、自分の心を成長させること
- 自分の考えていることを見つめ、知ること
- 自分の特性や特徴を活かすことにより自己理解と他者理解を探求すること
- まことの真理に向かい合い、自分をより理解すること
このようなことを仕事の中や対人関係の中で行いながら、自分の人間性や組織を成長させてゆくことを言っているのではないかと考えてみました。
気軽に使ってしまっている言葉にも、深い意味があるものです。
一つのきっかけではありますが、大変勉強になりました。言葉を大切に正しく使うことも大切なことですね。
また「開発」という言葉について誰かと会話することも楽しみになりました。
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