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普段はあまり、書評など書かない方だけれど、この本、久しぶりに面白い本でした。著者のウォルター・シャイブは、ヒラリー・クリントンに採用され、クリントン大統領とブッシュ大統領二代三期にわたって、ホワイトハウスのシェフを担当した人だ。
原作は 2007 年に書かれているので、ヒラリー・クリントンの大統領候補戦の大きなバックアップになっただろう事は、想像つく。もしかしたら、この著者は民主党ひいきな のかもしれない。まあ、そういったものを引き算しても、ホワイトハウスを運営する組織、と大統領のチーム、さらには、ファーストレディーのチーム(ヒラ リーの場合は、ヒラリーランドと呼ばれていたらしい)など、複雑な組織の中で、確実にプロフェッショナルの領域で、確たる成果をあげたストーリーだ。
その複雑な組織の中で、このウォルター・シャイブは、料理のプロとして、まず、環境を立て直し(ホワイトハウスのキッチンや材料の入手など、とんでもない 状況だったらしい)、さらには、以前からいるスタッフ(執事など)を思ったように動かすなどの苦労をして、徐々に彼のシェフとしての位置を得て、プロとし ての仕事をこなすようになる。
これは、上質の組織変革論として読んでも良いかも知れない。固まってどうしようもない組織を改革し、与えられた使命、たとえばステートディナー(日本なら 宮中晩餐会にあたるか)を成功させた。ヒラリー・クリントンの構想で、ホワイトハウスでの食事は、アメリカらしさ、ワインもアメリカのもの。最初のステー トディナーが今上天皇だったのも、印象的だ。さらには、フランスのシラク大統領も誉めるほどのレベルだったようだ。クリントン時代のホワイトハウスで出さ れる食事は、美味しかったんだろうなぁと想像される。
アメリカ人は味覚がないような印象を持つ人も多い。美味しい物などないと言ったりする。でも、味覚はまったく相対的、国や地域、家庭によって異なり、どれ が良くてどれが悪いかという判断をしてはいけない。しかも、アメリカでも高級な部類にはいるディナーは、日本人も舌を巻くうまさである。
さらに、ファーストファミリーの食事を考えるのもシェフの仕事で、場合によってはシェフ自身が作る。食事は、心を開き、支えになる。ビル・クリントンの家族とこの著者の間には、8年間で強い信頼関係が生まれたのだろう。ファミリーの健康を考えたメニューを作り、疲れていそうなときは、疲れを癒すような、ふたたびエネルギーを与えるような料理を出す。
ヒラリー・クリントンに支えられて、思う存分手腕を振るえた著者も、クリントンの任期が終了し、共和党のブッシュが大統領としてホワイトハウスに入ってきた。
まったくやり方が異なるが、料理のプロフェッショナルとして、ブッシュ大統領や大統領夫人の要求に応えていく。ブッシュ夫人は気取った事が嫌いで、なじみ 深いもの。ブッシュ夫人はテキサス出身なので、料理も南部風が好みなのだろうか。ブッシュ大統領もクリントンと同じく、キッチンにやってきては、ランチの メニューなどを話したり、気さくなやり取りもあったようだ。
ブッシュのファーストファミリーとも第一期の4年間は、うまくいっていたが、二期目に、リー・バーマンというブッシュ夫人の秘書が現れ、間に入ってしま う。このリー・バーマンという女性と著者の間がどうしてもうまくいかない。リー・バーマンがメニューに口出しをするようになり、最後には、マーサ・スチュ ワートの本を持ってきて、写真を見せ、それを模倣しろと言ったらしい。こんな事言われたら、私だって辞める。
料理本の写真を撮るための料理の作り方(味などは関係ないので、さまざまな方法で見た目を協調するのは当たり前)と、数百人に同時に同じ味、適切な温度で、美味しい料理を出すのとは、まったく技術が異なることを知らない。
素人の上長が赴任して、日経コンピュータに書いてある記事を鵜呑みにして、プロである情報システム部の人間に、「我が社もこうしなければならない」などと
言ったり、事例を見て、模倣しろというのと同じだなあ、と思った。こういったことが日常茶飯事になって、日本のITは衰退したのかな、などと想像したりする。
ということで、一読をお勧めします。
9・11の時には、ホワイトハウスの近くのペンタゴンに一機落ち、もうひとつのジェット機もワシントンの上空を飛んでいた中で、ホワイトハウスのシェフと して、危機管理で集まった警官や兵隊、スタッフに食事を作り続けるところは、泣けます。最近、涙腺がゆるいのが、つらいです。
2007年10月18日、私は『オレたちは、赤塚不二夫のまんがで育ったのだ』というブログを書いた。2002年に倒れてから、ほとんど意識がもどらないまま、この土曜日 2008年8月2日に亡くなった。
改めて。唖然としている。なにを書いていいかわからないので、前回に書いたブログをそのまま掲載する。
永井さんが、「デビュー当時のタモリの思い出」という投稿をされましたが、そのタモリは昔、大分県日田のボーリング場の支配人だったのです。それを上京させ、芸能界入りさせたひとりが、赤塚不二夫だ。
赤塚不二夫といえば、「天才バカボン」「おそ松くん」「もーれつア太郎」「ひみつのアッコちゃん」などの代表作がある。手塚治虫と同じようにスターシステムのような感じでキャラクターがいろいろな作品に出てきていた。
赤塚不二夫のまんがはギャグまんがの王道を行くもので、おそ松くんに出てくるイヤミの「シェー」は、当時爆発的な人気であった。なにしろ、映画の中でゴジラがシェーをしたぐらいだから。5歳下の私の妹ですら、シェーをした写真が残っている。
バカボンのパパがやはり圧巻だろう。ナンセンスギャグってのは、こんなもんだ、というお手本のようなもの。でも、ほんと、ばかばかしくて面白い。こんな 「ばか」なまんがを読んで、オレたちは育ったんだよな、って思う。いま、こんなばかなもの自体がない。お笑いタレントを見ても、笑えないし(まあ、それは 私の感覚が古くなったからか)。
赤塚不二夫のまんがが大流行りだった昭和40年代は、最近の「三丁目の夕日」または「トトロ」の昭和30年代に比べ、ベトナム戦争があり、高度成長があ り、学生運動があり、ストあり、機動隊と反代々木派の激突があり、などなど、実は殺伐とした時代だったのだ。だけど、子供のオレたちは赤塚不二夫のまんが で、ばか笑いすることができた。ささやかな、幸せであった。
だから、イヤミ、チビ太、デカパンのおじさん、おそ松くん6人兄弟、バカボン、ハジメちゃん、レレレのおじさん、ピストル撃ってる本官さん、ウナギイヌ、 ケムンパス、ベシ、夜のいぬ、ハタ坊、ダヨーンのおじさん、ア太郎、デコっ八、ココロのボス、ニャロメ、そしてバカボンのパパ。ありがとう。
今度、講談社と小学館から同時に天才バカボンの単行本が出た。なぜ2社かというと、ずっと「少年マガジン」に連載していた天才バカボンが、なぜか途中で 「少年サンデー」に連載が移ったのだ。この2社が同じサイズで、同じデザインで、同時に単行本を出す事になったのは、偶然ではなく、両社が計画したのだ。 そんな会社の壁なんて簡単に超えてしまうまんが、そんなにない。それに、講談社、小学館の両社もほめてあげたい。
赤塚不二夫は Wikipedia によると、2004年4月に脳内出血で倒れ、いまだ意識不明の植物状態なのだそうだ。
赤塚不二夫は天国で、「これでいいのだ」と言っている気がする。
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