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全自動の便器を使うたびに思う、【考える事】の重要性

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私は自動で流してくれる便器があまり好きではありません。

この好きではないというのは、機能が不満とかではなく、全自動の便器を利用している自分がどうにも間抜けに見えてしまう時があって、それが好きになれないというのがほんとの所かもしれません。

補足するならば、全自動の便器って自分にとって、考えない行動の象徴のような気がするんですよね…

我が家のトイレは便座カバーが自動で跳ね上がるタイプではありませんが、座れば自動でファンが回り、立ち上がれば自動で流してくれる、、、これがどうにも生活の中の工夫、仕事においての工夫をしない風潮の象徴的なモノに自分としては見えてしまうのです。

竹内さんが昨日、、「自分で考えて答えを出す」ことも、今後役に立つんじゃないかな?とエントリーで書かれていてとっても賛同してしまう自分がいます。

考えるだけで立ち止まってしまう事もあるけど、まず自分でどうするか?どうしたいか?を考えて行動に移すことってやはり失敗しても納得感や問題箇所の洗い出しにも絶対役に立つと自分は考えていて、この辺はとある方のMixiの日記にも被ってくるのですが(苦笑)

そして、高橋さんが、書籍の紹介に併せて、以下のような指摘をされています。

150グラム大きい能はそういった独特の細やかな、すばらしい文化を形成してきた。しかし、現在はどうだろう。昔から代々続けてきた躾や教えを、太平洋戦争後、捨ててしまった。150グラム大きい脳を教育するには、150グラム分余計に、それに見合った教育と厳しい躾が必要なのに、太平洋戦争後、それを止めているのが現状だ。だから、大学を出てもまったく幼稚なままでいる人が増えているのだろう。この本の筆者は、「未成熟な自己愛しか持っていない。」という。

戦後のバカデモクラについてはそろそろ是正する方向に向かう動きも出てきているようですが、運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作りゴール付近で接戦になるように調整したり、学芸会で、一つの劇の主役を複数の児童が途中で交代して演じるに至り、学級委員長も階級化しているとして図書委員、保健委員といった係と同格に扱うなど、幼稚化を通り越して、もう信じられない事態になっている県もあるらしいです。

どうにも日本の戦後教育における「個人主義」とか「民主的な教育」ってのが、そもそもかなり変なモノだと感じる人が増えて、もう少し別な方向に進んで欲しいと思う機会が中学と高校の子供を持つ身としては結構あったりしつつ…

同じネタを取り上げたJ-CASTニュースのほうにはこんな記載が

「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けてきた」

義務教育課程で、歪んだ形の平等主義にどっぷり浸かってしまい、最近見直しになったと言えどゆとり教育の弊害は子供たち自身も成長するにつれ、「自分達はゆとりだから…」という始末(これは我が家の息子が実際に口にする事があるフレーズ…苦笑)、記事にもあるように「誰かがしてくれるだろう」がどこか身体にしみついてしまうと、開拓、自主独立の気持ちって育たないですし、仕事をするにあたってもどうしても割り当てられた定型化した仕事はできるけど、柔軟性が求められる仕事に適応していくのは自己変革が必要になるはず。

テクノロジーの進化は様々な利便性や自動化による省力化など、これまでの苦労を軽減してより生産性の高いことに時間を振り向けることを可能にしてくれましたが、残念ながらとても高度な仕事をされている方も居るには居ますが、マニュアル化された仕事、属人的にならないよう、平準化された仕事(作業)で大量生産を行う仕事に従事する人も非常に増やしている側面もあると思います。

戦後の混乱期から日本を再生させた人たちのおかげで今の日本があり、それを敬うことが必要な事は戦中派の親を持つ自分としては、ある程度理解しているつもりですが、いまどきの若者に今後活躍してもらうための、教育方法や場を与えるという観点からすると、

世の中仕事が無い訳ではないが、経験や実績を積み上げることで、自分なりの成長や社会的な貢献を自覚できてそこにやりがいを感じられる仕事の場というのはやはり現象傾向なのではないか?と思うのです。

もう少し踏み込むと、労働市場の真の流動性確保という意味と、就業機会についての不公平感を是正していくには、日本における正社員の守られ方はすこし過剰なのではないか?という話や、解雇権の行使についての判例に縛られている現状からすこし変化が必要な時期に来ているのではないか?という主張や議論をテレビなどで見かける機会も増えてきており、わたしも何かしらの見直しはしたほうが良いのではと思っています。

つい最近このネタについての議論を見かけたのはNHKの番組でした、内容的にもう少しどうにかならんの?って思う点もあったりするのですが、その辺はテクネコ加藤さんがこんなエントリーをアップされています。

それと、先日掲載したエントリーからもう再掲しておきたい事があります。

ここ数日NHKで非正規労働、派遣労働から農林、酪農なのの分野に転職した人たちのことを取り上げていましたね。取材している人たちに共通しているのは「これまでの仕事では流れ作業で言われたことをやるだけだったが、今の仕事は全然違い、仕事において自分で考えることの必要性を感じ、またやっている仕事への充実感を感じることができた」という趣旨の感想を述べていることだと思います。

ここでも「考える」って事が重要なキーワードになっていますよね。

終身雇用だと思って入った会社でリストラされたら、それは確かに不満かもしれませんが、突然死の倒産で放り出されるよりはマシですし、不確実性の時代なんてキーワードもありましたけど、確かに思い通りに物事が進まない、逆境に追い込まれるのはストレスなのは誰しも同じで歓迎できる事ではありませんけど、

私は両親が数回の離婚経験(同じ相手と離婚・再婚を繰り返すというこれまたちょっと特殊な経験)と、父親から離れ母親と2人での生活をしていた時期など、自分の意思や個人の頑張りではどうにもならない経験、ゼロリセットするしかない状況に追い込まれたことが数回あります。

当然この経験は、良い面、悪い面、双方で大きく私に影響を及ぼしているのですが、

子供ながらに紆余曲折、浮き沈みが訪れて、自分が置かれた状況をまずは受け入れ、そこからどうしたら一番自分が思うところに近づくことが出来るのか?を「考え」、実践するための「工夫」がなかったら今頃どうなっていたかわからんぞ…という事だけは明言できるんですね。

こんな経験からか、状況判断がまったく出来ていない無思考な行き当たりばったりな行動をしている自分の子供を見ると瞬間湯沸かし器状態になってしまうのですが、150グラム大きい脳を教育する為に、それに見合った教育と厳しい躾がされているかと問われると急に弱気になってしまうわたしです(自爆)

今日は久々に硬めの話題で長い文章になってしまいましたけど、そんなこんなで、冒頭にお話した自動化された便器を見ているとその無思考の象徴のように見えてしまってどうにも好きになれないんですよね(苦笑)

と、自分なりに皆さんのエントリーを拝見しつつ、自分の中に問いかけをしながら、自分の考えを文字にしてみた次第です。

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