クラウドとユーザエクスペリエンスの浅からぬ関係
ある見方によれば、クラウドがユーザエクスペリエンスを「悪く」するかもしれません。
ユーザエクスペリエンスとは、このように定義された言葉です。
ユーザーエクスペリエンス(UXと略記されることが多い)とは、ユーザーがある製品やシステムを使ったときに得られる経験や満足など全体を指す用語である。
ユーザエクスペリエンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9
私は、「ユーザが何かを行なった時に、行ないながら、また行ったあとに人間が感じるものである」と解釈しています。 なぜそのユーザエクスペリエンスのことを思い出したかというと今日のオルタナティブブログでこちらのエントリを読んだからです。
Zいいですね。15年以上もハンドル握りながら自分に語り続けるアキオ君の気持ちがわかります。途中で読まなくなってしまったのですが、最近一旦話が完結したそうですね。アキオ君のセリフではないのですが、「車好きには2種類の人間がいる。体にオイルが流れている人間とガソリンが流れている人間だ」という言葉が好きでした。オイル派は車をいじるのが好きな人間で、ガソリン派はハンドル握ってるのが好きな人間、だったかと思います。
それはさておき、岩永さんのエントリのこの2つの文が車のユーザエクスペリエンスについて多くを語っていると思います。
とりあえず国内モデルの2リッターは2.8リッターまで拡大できたとか、逆輸入の2.4リッターは3.2リッターまでいけるぞとか、ソレックスやウエーバーの3連キャブレターがどうのこうのとか、当時ですら排ガス規制に適合できない有鉛ハイオクでリッター2キロしか走らないとか、まぁ環境に悪いことこの上なかったわけですが、とにかくカッコ良い。
走れば楽しそうな車だとは思うのですが、自分的には欲しい気持ちとは別に維持できる車でもありません。
1つ目のユーザエクスペリエンスはこだわりのある仕様です。F1などの実戦で磨かれた技術を市販車に投入したり、日本では不要なヨーロッパ仕様の某がついていたり、というのは重要なところです。また、小さな頃に学研の図鑑で見た某が実現されていることもポイントが高くなる要素です。
オルタナブロガーの永井さんがお書きになった「戦略プロフェッショナルの心得」で「認知的不協和」という言葉が紹介されていました。自動車のオーバースペックもこの認知的不協和を利用したものであると考えられます。
自分が自分自身に抱いている「俺は上手に車を乗りこなせるんだぜ」というイメージは、例えばマニュアルミッションの大出力スポーツカーを運転することで満たす事ができます。それらの車は広く一般に「乗るのが難しそう」という印象が浸透しています。車の運転が好きな人は、それらの難しそうな車を運転して「あの人は車の運転がうまい」と思われたいのです。
ところが誰でも乗りこなせそうなオートマのファミリーカーを買ってしまうと「本当はスポーツカーをばりばり運転する能力があるんだけどな。初心者マークの人でも乗れるような車を好んで乗っていると思われていないかな。」という気持ちになってしまいます。
『車の運転がうまい自分≠ファミリーカーに乗っている自分』
という部分で認知的不協和が起きてしまい、車に乗るのが楽しくなくなってしまうわけです。奥さんの運転能力の制約などでファミリーカー以外の選択肢がない場合、しばしばドレスアップという形で認知的不協和の部分的解消が図られます。シフトノブやホイールやステッカーなどはそれにより売れる代表的なパーツであると言えるでしょう。
2つ目のユーザエクスペリエンスは「走って楽しい」ところです。エンジン音が聞こえる事、良く曲がり良く止まることなど走って楽しい条件は様々です。人によってはエンジンがかかってくれないことやオーバーヒートすることですら「走って楽しい」の一部になるでしょう。(参考:ミッレミリア)
そんな「走って楽しい」を体現する車がありました。バブル崩壊が誰の目にもはっきりと見え始めた1991年に発売されたホンダのビートという自動車です。
2人乗りのオープンカーに、バイクのように高回転まで使える660ccのエンジンを組み合わせて黄色や赤に塗るという正気の沙汰とは思えない仕様により、未だに多くの人の心を惹きつけて止まない車は当時の私の父の心も轢きつけました。かくて我が家のセカンドカーになったビートは1999年までの7,8年間で1万キロ台しか走っておらず、晴れて私の大学入学の持参品となりました。
世の中にはスポーツカーが多くありますが、そのほとんどは日本国内の公道を乗る限りでは半分の力も出せていないのではないかと思います。特に3000cc以上のエンジンを載せていればアクセルを「踏む」というエクスペリエンスを感じることもほとんど無いでしょう。ところがビートで高速道路に乗ると文字通りアクセルをベタ踏みし、合流では8000回転くらいまで回してギアチェンジするといった楽しい経験ができます。街中で合法的に走る楽しみを感じることができるという意味ではビート、カプチーノあたりの軽自動車は実によい落としどころであると思います。
このように「アクセルを踏む」というのは車のユーザーエクスペリエンスの中でもかなり重要な部類に入るわけですが、これが失われるかもしれません。皆さんご存知の通り燃料電池自動車をはじめとして自動車の動力機関はガソリンエンジンから電気のモーターへと変わってきています。空ぶかしも暖機運転もいりません。これにより振動や音は低減され、車好きな人から多くの楽しみが奪われるかもしれません。(もちろん車が好きでない人からしたら好ましいことです。)
ではタイトルについて考えてみるとどうでしょうか。クラウドコンピューティングはインターネットを介したあちら側で処理が行なわれます。PCのCPUを使い切り、ファンが音を立て、画面描画がたどたどしくなり、まだかまだかと処理終了を待ち望み、終わったー!合ってたー!というエクスペリエンスを楽しむ機会は存在しません。いや、そんな人いるだろうか。いるという前提で進めます。クラウドな世界ではNetBookを使ってもハイエンドPCを使っても、インターネット越しに配信される結果を受信する以上の処理はありません。
ウェブ進化論の中で梅田望夫氏はこんなことを書いています。
プログラムを書くとその一行ごとに紙カードを作るのだ。放課後、紙カード穿孔機が二十台くらい並ぶプレハブの穿孔機小屋に行って順番を待つ。(中略)そんなふうに来る日も来る日も、穿孔機小屋と地下室のあいだを往復していた。いつも順番を待ってばかりいた。
「えっ、何?コンピュータを家で持つことができるの?」
「それで、好きなときに好きなだけ、使うごとにお金なんてかからずにコンピュータが使えるの?」
梅田氏のようにコンピュータを自由に使えるということが喜びに感じられる人にとっては、コンピュータに自分の思い通りの処理をさせることがエンジンをふかすことと同じように楽しいことであるはずです。
単純なゲームの時代から、オフィス文書の作成、インターネット、音楽再生、3Dゲーム、オンラインゲーム、SD動画の編集からHD動画の複数同時録画までPCにやらせる処理のトレンドはこれでもかと重くなってきました。それもPCを使いこなし、性能のすべてを出し切ること、つまり車であれば山道や高速道路を思うままに走ることを楽しんでいるからではないでしょうか。
古い時代(なんて言って大丈夫だろうか)には、『コンパイル煙草』という言葉があったそうです。私が仕事を始めた頃にはもはや機器が十分な性能を備えていたので既に実質的な意味を失っていましたが、そうしているところは今でも見かけます。煙草のほうが消滅しない限りはきっと風習としてこれからも残り続けるでしょう。 コンパイルの待ち時間が気分転換にならないほどの短い時間しか要しないようになったことは大きな進歩ですが、技術者の中には一抹の寂しさを感じる人がいるかもしれません。
ガソリンエンジンに対するモーター、パーソナルコンピューティングに対するクラウドコンピューティングはそれぞれ技術の進歩の現れであり、世の中の大多数の人を幸せにするものであると言えます。しかし一部の人はその不便さに喜びを感じ、その苦労を味わえなくなることを寂しく感じるのではないでしょうか。クラウドの浸透により、「仕事してるぞ!」という実感が薄くなったように思う人が一時的に、局所的に、現れるような気がします。
私もビートを手放して5年以上経ちました。特徴のある車なのでよく手入れされて元気に走っている姿を見かけますが、もう7000rpmから7400rpmあたりのパワーバンドを感じることは無いだろうなと思うと寂しいです。
右下に写っている人はこの5年後にホンダ社員になりました。