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茹でガエル:煮えたぎる鍋から飛び出しただけでは解決しないカタカナ職業の高齢化問題

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茹でガエル世代というラベルへの違和感

日経のこちらの記事を51歳の自分としては興味深く読んだ。

日経ビジネスは、今の50代をこう命名する。50代の読者にとっては、不愉快な話だろう。しかし、現状を冷静に分析すれば、そう指摘せざるを得ない。

 カエルは熱湯に放り込むと驚いて飛び出すが、常温の水に入れ徐々に熱すると水温変化に気が付かず、ゆで上がって死んでしまう。この寓話はまさに、今の50代、とりわけ多くの男性の会社人生にそっくりだ。

wikipediaによると、茹でガエルとは、ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、困難性を指摘するために用いられる警句のひとつ。多くのコンサルタントや活動家などによって、自然科学上の実験結果であるかのように語られているが、実際には、カエルは温度が上がるほど激しく逃げようとするため疑似科学的な作り話が広まったものだそうである。

「水温の上昇を知覚できずに死亡する」ことと、50代のとりわけ多くの会社人生にそっくりとはどういうことだろうか?

そもそも水温の上昇にあたる、外部環境の変化に50代が気が付いてないという指摘ではないと思うのだが、、、

日本では80年代に入るまで55歳定年制があり、ポパイ・JJ世代および新人類世代の親は55歳定年制のもとで働いていた人も居たはずで、自身が刷り込まれた定年年齢は55歳というケースが想定される。

そして、80年代に入っての60歳定年移行、その後の65歳までの雇用延長など自身の環境が大きく変化したことを知覚できなかったというには無理があるのではないだろうか。

大きな外部環境変化の直撃を受けた世代

またこの年代が働き始めたころの会社員の定年の姿、もしくは団塊世代の定年までの働きかたと、自身が求められてる働き方の違いはこれまた明白であり、「こんなはずじゃなかった」という指摘は間違っていないが、楽観的で現実を直視せずという指摘にも同意しかねる部分がある。

著者の場合は、1985年に専門学校を卒業し社会人生活をスタートさせたが、その当時現場でバリバリ働いていたのは、25歳~35歳くらいの人たちであり、40代に入った方々は現場からは引退モードで扱われているような時代であったと記憶している。

また、NTT株が発売されたり、地方に1億円くばるなどのバブリーな時代には、定年まで働くのではなく、早めにリタイアすることが良いとされた語られていた時代もある。

その後にバブル崩壊、インターネットをはじめとするIT普及、リーマンショックなどの外部環境の変化に晒されるなかで、楽観的で現実を直視せずというのは、受験地獄を勝ち抜いて、良い学校に入って大きな会社に入ればエスカレーター式の人生が開けるという昔の概念を持ち続けているような人だったりするのだろうか。

このような事からも、今の50代が団塊世代と同様に出世できると最後まで夢を見ていたと著者は到底考えることはできない。

ただ、年長者を敬う、目上の人間の言うことには黙って従うというような教育をされた世代であること。

ビジネスだけでなく、サブカルチャーを含む文化面においても、戦後に作り上げられた成功モデルを頑なに守りながら拡大再生産を任された世代が、環境変化は知覚はしていても、上に逆らいきれずに現在を迎えている側面は否定できないであろう。

煮えたぎる鍋から飛び出しただけでは解決しないカタカナ職業の高齢化問題

当該記事はサラリーマン(ホワイトカラー)のこんなはずではなかったに触れているわけだが、これからの日本においては、昭和の時代に形づくられたアニメや美容業界のような末端で実務を行う人たちを低賃金で使い上位階層が儲かるモデルであったり、著作権をがっちり押さえて制作会社を買いたたくテレビ局の存在など、利益分配の産業構造的に改善が必要な部分が数多く残されていると考える。

また、カメラマン、ミュージシャン、デザイナなどなど会社に属さない人たちの高齢化問題も実は深刻なものがあるはずだ。

老後の破産や貧困問題が論じられる機会が増えているが、こう考えると、「水温の上昇を知覚できずに死亡する」ならまだよく、定年制度だけでなく、個々人のライフスタイルの問題などから、リタイア後の生活が破たんし、人生を終えるまでの生活がとんでもないことになるケースが増えるような気がする。

たぶんそこには、煮えたぎる鍋から飛び出しただけでは解決しない問題が広がっているはずである。

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