ファシリテーションとは、「さりげない」のではなく、「当たり前」なのだ。
先日、或るプロジェクトに陪席したとき、すごい悲しい思いをした。
前日まで相談を受けていたので、資料の仕上げ方の確認とか当日の基本的な段取りを助言したにもかかわらず、その翌日。本番は、
最悪。。。こんなひどい進行みたことない。(号泣)
会議資料は開始時刻までに準備 が間に合わず、5分ほど遅れて会議室に到着。
資料をあたふたと待ちわびた出席者に順序や置き方に何の配慮もなく、
進行の仕方をリハーサルしていないのか、たどたどしいオープニング
プロジェクタをテストしてなかったらしく、不幸にもプレゼン資料がスクリーンに映らない。10分くらい合計ロスした気がする。
資料は絵心が統一されておらず、作成者のセンス任せ。雑なものや幼稚なものがある。
着席位置も考えられてないため、なんとPMが末席に座ってしまった・・・
過度のプレッシャーからか、プレゼンテーションはまるで地雷を踏まないように匍匐前進するような対話、クライアントの発言はちゃんと聞き取れてないし、ましてや行間が読めるわけもなく、
そして終盤、会議体はお通夜のようになっていた・・・涙
成果物が例えハンパであっても、きちんとしたファシリテーションをすれば、感情論も紛糾しないし、多少間違った議論を誘発しても、ちゃんと元にじき戻ってくれる。至らないところはみんなが同じ気持ちで、ゴールを達成するための役割分担も話し合えるし、Overdueだってリカバリプランを調整することもできる。
でも、ファシリテーションが不十分だと、空気も悪く、気分も悪くなっていく。それでいて資料の中身が不十分だったら、あとに待っているのは修羅場。。。
実力ない者がファシリテーションを「さりげなく」演出しようと思うなかれ。
ファシリテーションとは、やって「当たり前」なのだ。