#10年前の今日
10年前の3月11日14:46分。
僕は東京都港区の某オフィスビルの30階にいました。
縦揺れがはっきり感じ取れました。
「P波?おい、これは次S波結構でかいの来るぞ!」
約10秒後かな、ほんとに大きな横揺れがきました。しかも長い間。
キャスター付き椅子に座ってる仲間が横揺れに踏ん張れずゆらゆら、机とか何かつかまって我慢してる。
会議室等のパーティション(間仕切りの壁)がいくつか外れた。ほんとにデカイ。
しばらくして、ビルの防災センターの係員が、とんでもないことを宣いました。
「皆さん、速やかに退館して、ビルの外に出てください!」
おいおい、そこ反対だろ。
天下のゼネコンが建てた高層ビルなんだから、「安心してその場に留まってください」じゃないのか(泣)。
オフィス内にパニックが生まれました。
逃げる動線確保のため、フレームが歪んで開かなくなる前に出入口のドアを解放する。
「財布と携帯、最低限の貴重品持って、ひとまず地上まで避難しよう!」
間違った防災センターの口車につい乗ってしまい、
みんなを誘導して、非常階段で30階から1階へ降りる。
※正確には3階から地上に出れる誘導路でした
数十人の社員を複数パーティに分けて、先頭隊を引率して地上へ向かう。
強い余震が続き、非常階段の蛍光灯がバチバチ火花を散らし、手すりのビスが2つ3つ外れて「ポン」と飛んでいく。不謹慎だが巷のRPGでみるような光景だった。
ひとまず地上に出た。たくさんのテナントからたくさんの人が避難してくる。地上のドアが閉まって開かなくならいように、扉を手で支えて開けたままで避難してくる人達を非常口前で見守る。
一通り避難が終わり、出てくる人がいなくなった。集合場所に行って、テナント名と階数、当時テナントにいた社員の数を点呼する。ちなみに2名足りない。。
その頃まさに、携帯の画面で津波のライブ映像が見れてしまった。これはホントに凄すぎる。こんなことが現実に起きるなんて。東京ではその頃、液状化現象が起き始め、あちこちで石畳が歪み、少し離れた建築途中の高層ビル上のクレーンが振り子のように大きく揺れている。少し遠くでは同じような現場で火花もみえた。
余震がしばし収まった。点呼報告も終えたし、次は社員の状況確認。
急いで降りたせいで、「携帯/財布/上着忘れてきました」、複数の社員が訴える。
ビル管理者は「また昇るなら自己責任で」とか言いやがる。そりゃそうだけど。。地上に誘導したのおめーだろ!?再度上りたい社員を連れて30階までまた非常階段を昇っていく。2往復かあ、結構きついぞこれ。
オフィスに再度戻って、降りてない2名と再会。ある意味正しい行動であって、「ここがもっとも安全だからこのままもうしばらくここにいます!」、、、ハイハイ、おっしゃる通り。では他の社員とまた降りるので、また来週までに連絡をとりあいましょう(この時点では携帯回線はパンク状態ですが)。
すぐ近くが大手ホテルだったので、他のテナントの責任者数名とホテルに向かい、バンキットルームを今夜避難場所として貸してもらえないかと交渉。返答はなんと即決!
「当然です。トイレもあるし、毛布も準備します。全ての宴会スペースを必要なだけご提供します」
・・・涙が出るね。「飲料水はコンビニとかでミネラルとか、あと調理品が提供できないのでおにぎりとか買っておこしください」だって。幸いコンビニは近くに3つくらいあるんで、そのように指示。で他のテナントさんとスペースの使い方の基本割り振りを打ち合わせして、帰りようのないスタッフの一晩の宿がこれで確保完了。
次は自宅に帰りたい人に指示しなければならない。急ぎ避難したのでお金がない人には、まとめて自分がコンビニATMで引き出したお金を分けて貸出し、帰宅したらメールで無事を連絡するように伝えて、解散。
このときだいたい16時半。少しずつ日暮が感じられる。真っ暗になる前に少しでもみんなを帰りたい方向へ向かわせたい。遠距離通勤の人の宿と、帰りたい人の帰路を見送ったのち、17時前、自分も自宅へ向かう。
港区某所から品川区荏原まで。徒歩で帰ったことがないが(笑)、なんとなく距離的に2時間半~3時間くらいと思っていた。歩き始めて、地震でゆがんだ歩道を歩きだすと、同じように徒歩で帰路へ向かう人のなんと多いこと。歩道じゃ足りなくて車道を歩く人が増えていく。まあ当たり前だがタクシーなんてつかまるはずもなく、バスは東南アジアかと思うくらいに超満員で降りたい人が絶対降りれないだろうくらいにパンパンで、待っていても乗れるはずもない。というわけでみんなトボトボ帰路を急ぐ。
意外にこの徒歩は疲れる。。途中でコンビニに寄り、水と、あと酒の力を借りようと(笑)ミニワインを購入。30分くらい歩いたらどこかでちょっと休憩して、水とワインで元気を補充。白金高輪あたりだったかな、休憩していたら隣に同じような疲れた人が一休みに来られて、「あー、いいですねえ、ワイン。僕も買っとけばよかったな」「プラコップ共有になりますけど良かったら一杯どうですか?」「ありがとうございます!・・・うめー、生き返りました、ありがとうございます」だと。
「どこまで帰るんですか?」「私は品川区荏原です」「そうですか、僕は川崎です」
え!?そんな遠くまで歩くんだ??「あの、良かったらこのワインどうぞ。水はいつでも買えるから。私は荏原までだからきっと水だけで大丈夫。どうぞどうぞ」「えー、すみません。ありがとうございます。ではまたもしお会いするときあれば必ずお返しを!」・・・その人は私より速い足取りで先に帰路へ向かっていきました。
どうにか帰宅したら、5時間くらい経ってました。だいたい22時。あー、やって帰れたー。
あと2時間くらいでその時刻となります。あの出来事がたくさんの人にいろんな傷を与えました。今そこから幸運にも生きている僕らは、14:46に犠牲者のご冥福と被災者の復興を心からお祈りし、これからも自分ができることを一生懸命頑張っていくのみです。
新しい一歩を、今あらためてこれから!