「やりたくない」という言葉遣いは、上手に言えるようになってから使ってほしい。
「やりたくない」と言う権利は、誰にでもあると思う。
でも、
仕事において、それを言う決断とか覚悟は相当なものが必要かと。
「仕事を創る」側にも、いろいろと悩みや不安がある。
その仕事は自分一人で完結するものではない。
時には、そもそも自分一人の技量で完結できない、つまり他者の協力なしに完結できないものもある。
それに、創ったはいいが必要な要員が快諾してくれなければ士気があがらず、成果はせいぜい平凡なものになるだろう。
望むらくは、現在空いている要員が無事稼働できるような題目の仕事を獲りたい。
そんな悩みや不安と闘っている。所詮、「仕事を創る」側の意見ではある。
しかし、企業体として、「やりたくない」と言う権利行使は、もはや会社の一員としては失格扱いされても文句は言えない、「伝家の宝刀」であることは知るべきだ。
断る方もそれなりに不快だったり後悔したりするかも知れないが、仕事を創る側もそれは相当にショックである。
僕もそんな人とは二度と仕事しようと思わないし、その人に仕事が配られて欲しいと思うことも金輪際ないだろう。アリとキリギリスではないが、自分で仕事を探して他人に頼らず生きて欲しいものだ。
まったくもって不合理不条理且つ不快極まりない仕事依頼を断るのは当然の権利だ。しかしそれは「不合理不条理且つ不快極まりない」くらいに相当に際立ったものであれば一刀両断に否定してもよかろう。しかしそうでないものは相当に配慮した背景や事情説明があって、その上で断らないと、もうそのシコリは二度と小さくはならないし、時間がたってもなくなることもないだろう。そのリファレンスは一生ついて回るだろう。
そこまでの覚悟があるのか?そう言う人に、私はぜひ問いたい。
(或る同業友人からこの話を聞き、所感を書かせていただきました。ご了解ください)