誤解であってもそれを不幸だ不運だと言ってるうちは必ず評価の邪魔になる
そろそろ社内外問わず半期業績評価のシーズンです。
弊社・私の場合、09年半ば=年度半ばですので従業員の半期評価もするし、派遣サービスを含む社外パートナー企業・プロスタッフも半期評価を行う習慣にしています。
人材商売である以上、成果を出すのも自分達人材であると同時に、それを評価するのも上司やお客様という人材です。
その評価ですが、本質的に、人材が創出した成果の評価と、人材そのものの評価の2つがあると考えてます。
そして、どちらにも共通の考察事項が1つあります。
人材間のコミュニケーションには残念ながら一定の「誤解」や「勘違い」があるということです。
誤解・勘違いは、「どちらかに非がある」場合もあるし、「両方に(割合はいろいろとして)ある」場合もあります。さらには、「どちらにも非がなく」、まさに「不幸」や「不運」と言える世界も存在します。
ですが、業績評価において、これを評価する第3者が正確に上記3パターンのいずれに該当する「誤解」や「勘違い」なのか、必ずしも判定できないし、できないことの割合が多い。
なので、評価作業する側においては、正直いってどのパターンかなんか気にしないでやるのが正しいやり方かと思っています。
確かにはっきりわかる場合もあるけれど、「誤解」や「勘違い」は統計学的には誰にでもたまに起きえることで、またその発生確率が多い場合は、ほぼ全面的に、やはりその当人に何らか問題あってそうなっているとしか思えないわけです。
たとえばコミュニケーションスタイルに強い癖があるゆえに当人が周囲から誤解・勘違いされがちであったり、当人のスキルにはっきりと欠点や不足があるために、それを補えないゆえの誤解・勘違いが多発することが殆どでしょう(100%とまでは申しません)。
誤解・勘違いがあっても成果がちゃんと出たらそれはOKだし、成果が出ない目に遭わずに済んだことは幸運だったとも言えるでしょう。
また、結果が出なかったのが誤解・勘違いによることは明らかだとして、それを通常ほどのマイナス評価にしなかったとしたら、それは温情とか情状酌量とかいう話で、つまるところこれも幸運(悪運なのかも)だったということなのでしょう。
だから、そうならなかったら自分(被評価者)は「不運」「不幸」だったといえるかというと、それは違うだろうと。
やはり評価においては、誤解・勘違いによるかどうかを問わず、結果が良かったか、不評・不満に終わったかどうか、それだけをデジタルにまず評価すべきと思うのです。
自分に非がない誤解や勘違いによって結果が出なかったとき、それを考慮してくれと主張することは間違ってはないと思うけれど、それが考慮されなかった(=評価は悪いまま)とか、結果が出なかったことを自分は「不運」「不幸」だったということも悪いことだとは思わないけれど、
いずれにしてもそういう思考でいるということは、つまるところその人の総合評価は、残念ながらMarginalとかOrdinaryとかいう言葉でしか表現されないだろうということです。つまり「最低限」とか「平凡」ということです。
厳しいことを言うようだけれど、私が好きで居る「この世界」においては、非凡(extraordinary)とか最高(maximal)を目指すべきなのです。
だから、
そこをぐっとこらえて、さらに高みを目指して不平不満を口にせず、結果を出すことだけに集中してほしい。
男は黙って、・・・古いか(爆)