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本居宣長も自分史を書いていた!?

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一昨日に三重県松阪市で自分史講座の講師を午後と夜の2回務め、そのまま夜は松阪で一泊しました。昨日は時間があったので、歩ける範囲で松阪市内を見て回りました。

松阪城跡に、松阪で生まれ育った国学者の本居宣長の記念館があったので行ってみました。宣長の著書、蔵書、遺品などが展示してあります。その中に「日記」がありました。

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宣長のイラストと吹き出しがいい味を出してます。吹き出しの中には『「日記」となっていますが、「自分史」から始まっています』と書いてありました。宣長は13歳のから亡くなる72歳までずっと日記をつけていたそうで、「生国は伊勢のくに、飯高の郡松坂が本町なり」と生まれたときの記述から始まっているそうです。本居宣長も自分史を書いていたのだと感激しました(笑)。

こちらは有名な『古事記伝』です。

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『古事記』を読むためにもっと勉強しようと思った宣長は、34歳のときに、国学者の賀茂真淵が江戸から松阪に来ているのを知り、会いに行って弟子入りを志願したとのことで、この出会いが「松阪の一夜」と言われているそうです。真淵と会ったのはその1回だけで、あとは宣長が『古事記』に関する質問を手紙で真淵に送り、それを真淵が添削して送り返すという形で研究を進めたそうで、通信教育のはしりと言われているとのこと。そして『古事記伝』全44冊が完成したのは宣長が69歳のときで、研究を開始してから35年かかっているそうです。このへんはクイズになりそうな知識ですね(笑)。

記念館の隣には、宣長が12歳から72歳まで住んでいたという旧宅が移築されていました。

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案内係のおじさんがいろいろ説明してくれましたが、宣長の本業は医者で、本業の仕事を終えた後、この旧宅で松阪の人たちに『古事記』や『原子物語』などについて講義をして、夜は2階の「鈴屋」と呼ばれる自室にこもって勉強や執筆をしていたそうです。「鈴屋」の名前の由来は、宣長が鈴の音が好きで、疲れているときに鈴を鳴らしてリフレッシュしていたことから。階段が移動式になっていて、自分が2階に上がった後は、誰も2階に上がらないようにさせていたとのこと。

宣長が長期間にわたって研究を続け、大きな結果を残せたのは、勉強や研究が大好きで、それに没頭していたからでしょうね。やっぱり自分が本当に好きなことをやるのは大事だと感じました。今回たまたま本居宣長の記念館と旧宅を見る機会を得て、宣長への関心が高まりました。宣長にならって、今後も歴史からいろいろ学んでいきたいなと思います。

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