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なぜ今【ベーシック・インカム】なのか

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「ベーシック・インカム 基本所得のある社会へ」の著者のヴェルナーは、ヨーロッパで1,600以上の店舗と23,000人の従業員を抱えるドラッグストアの経営者であり、大学教授でもあります。この本は、新聞や雑誌で公開されたヴェルナーや関係者の論文や対談を、1つにまとめた形で構成されています。

ベーシックインカムは、ヴェルナー以前から議論されてきました。誰に支給するか、財源をどうやって確保するか、などについて異なる考えがあります。最初にヴェルナーが考えるベーシックインカムを明確にしておきます。

  • ベーシックインカムとして、すべての公民に無条件・無申請で月額1,500ユーロ(11月10日のレートで換算すると約19万2,000円)を支給する。この金額は、最低限の生活を保証しうる額、人間的な生活を可能にする額で、以下の消費税を支払うことができる額である。子供には300ユーロ、年金生活者には労働世代よりいくらか少なめ、など、年齢に応じて、段階をつけることも考えられる。
  • 現金給付の社会保障(年金、生活保護、児童手当、失業手当など)は廃止して、ベーシックインカムに一本化する。
  • 会社から支給される給与所得者の給与は、ベーシックインカムの分だけ減る。各個人の購買力は現状と変わらない。
  • 企業の法人税、個人の所得税、その他の税金は廃止して消費税のみとする。消費税率は45~50%になる。
  • 以上の改革を、15~20年かけて段階的に実現していく。

これを見ただけで、かなりぶっ飛んだ提言と思われることでしょう。いろいろな疑問や反対意見が出てくると思います。

この考え方の根本には、現代の社会に対する以下の認識があります。

問題は、私たちがお金を、つまり収入をつねに労働と結びつけることにあるのです。古代ギリシャ人はこの点では先進的でした。ふつうのギリシャ人は働かない代わりに、奴隷を所有していました。そして、現代の私たちの奴隷は、生産方式であり機械です。そのお陰で、私たちはますます少ない労働でますます多くの財を生産することが可能になる。そして、この生産方式と機械がますます多くの部分を片付けてくれて、人間がもはや労働することがなくなれば、私たちは人びとに収入を調達してやる必要があるのです。

私たちはようやく現在、経済において生産が消費をはるかに上回るというパラダイスのような状況を手に入れたのです。

まず、労働と所得を切り離します。じじつ、「働かない者は他人に養われている」という言い方をすることによって、失業という概念が存在するようになるのです。

ヴェルナーは「失業はチャンスだ」と言います。

ルイク(注 インタビュアー):
そう考えると、失業者をたくさんかかえたドイツ経済はすばらしい状態にあるということになりますね!

ヴェルナー:
そうです。私たちはパラダイス的な状態にあるのです。問題は、社会が産出したものへのアクセスをすべての人びとに可能にするにはどうしたらよいか、ということです。私たちは過去5千年にわたって欠乏に悩まされてきましたが、この欠乏が遺伝的に私たちのなかに伝えられているかのようにみえます。私たちは人類の歴史上初めて過剰のなかに生きているにもかかわらず、多くの人びとはこの新たな現実を正しく理解できずにいます。

(略)

ルイク:
失業者があふれているのに、危機ではないと言うのですか?

ヴェルナー:
私たちは思考危機に陥っているのです。これほど多くの失業者が存在するということは、私たちの経済の強みであって、生産性の高さを示すものです。

そして、「完全雇用の時代は決定的に過ぎ去った」という事実を受け入れなければならないと主張しています。

完全雇用への復帰という常套句からしてすでに茶番(フォルス)である。ほぼ200年来続いてきて、疑いなくいつの時代にも大部分の被雇用者を生み出してきた産業資本のどの時点をとってみても、完全雇用に近いと言えるような時期は、いくつかの短期間の例外的な現象でしかなかった。労働熱中症患者たちが考えているのは、1950年代初頭から60年代末までの時期である。それは、今日にいたるまでこの社会の不動の目標として呼び出されるあの時代、つまりドイツの「経済の奇跡」(高度経済成長)といわれる時代だ。ただし、この「経済の奇跡」下で高度成長と完全雇用がもたらされたのは、6千万の死者、つまり第二次世界大戦の犠牲者がいたからである。

実際すべてが新たに建設されなければならなかった敗戦後のドイツでは、-特に男子の労働力が十分ではなかった-多くの労働力が必要とされた。そこに疑問の余地はない。しかし、まったくの平時に完全雇用があったためしはない。

(中略)

じじつ、ドイツでは2,560万もの被雇用者が稼得労働に専念することはまったく不要なのだ。ロタール・シュペートとマッキンゼー・ドイツ支社の元経営者ヘルベルト・A・ヘンツラーは1993年にある試算をおこなった。もしドイツで技術的に実施可能なオートメーション潜在能力を完全に発揮させたらどうなるか、というものである。その回答は、失業率は38%が常態となろうというものだった。

ドイツと共通するものが日本にあります。日本でも完全雇用に見えた時期は、短い期間でしかありません。

昭和初期の日本は、大卒卒業者の就職率が約30%の不況がありました。日本の高度経済成長期は、1955年から1973年までの18年間です。この期間を含めて、選り好みをしなければ全員が正社員になることができたのは、1990年頃まででした。1990年からは就職氷河期です。ここ数年は就職状況が好転しつつありましたが、世界的金融不安によって来年からは第二次氷河期になる可能性があります。企業は今回の危機を乗り切るために、ますます自動化と働く人の非正規化を進めることでしょう。

本の中で、ランクフルト出身の社会学者ザーシャ・リーバーマンは、私たちがオートメーション化のとてつもない可能性を有効に展開するシステムを作り上げることが重要であると言っています。

失業というのは、巨大な成功の結果なのです。つまり、ますます少ない労働でますます多くのものを生産するというプロジェクトが成功したわけです。そして、そこから可能な限り多くの利益を得るのに私たちが必要とするのはただ一つのメカニズムだけだということはもうまったくもって明白です。私たちが若い人たちをどんな状況に追いやっているかをご覧なさい。若者たちにかかる重圧は、彼らが企てようとするあらゆる冒険の敵なのです。彼らは、あらゆる方面ですでにごく少数の者にしか残されていない稼得労働の職場を闘いとらなければならない、と訴えかけられます。それゆえ、彼らはいかなるリスクも冒そうとしません。零落するのがこわいのです。

完全雇用の時代が過ぎ去ったにもかかわらず、収入を労働と結びつけることを止めないため、少なくなった雇用機会をめぐって若者にプレッシャーがかかっていると言います。

私は今まで、失業は景気や個人の自己責任の問題と考えていました。「生産性が高いから失業が起きる」という考え方は新鮮でした。

次回に続きます。

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