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コミュニケーション・デヴ

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今日はとりとめのない、なんだかよく分からないことを書きます。

震災以来、どうもTwitterタイムラインで小競り合いが多くなりました。もちろんこれはぼくがそういう人を多くフォローしているというのが大きいでしょうけれど、いろんな価値観の違いが浮き彫りになってきたんだなと感じます。起きること自体はそれで仕方ないので、とくにコメントはないのですが、気になるのはそうやって起きたちいさな争いが、罵倒になってしまうこともあって、見ていて辛いなと思うことも良くあります。

で、そういうのを見ていて、相手のことひどく罵って「バカにバカと言って何が悪い」というコメントをつけるケースを何回か見ました。あ、先に書いておきますが、この記事では、その発言を見てSF的に想像を広げたことを書くつもりなので「そういうことを言って良いかどうか」については知りません(いや、ぼくは罵倒は良いと思ってませんが)

話を戻します。こういった罵倒発言を見ていて、想起するのは、じゃあ、太っている方にデブと言って良いのかということです。これはあまり公言する人を見たことはありません(ネットではそういう罵倒は確かに多く見ますが、わざわざ「言っても良いんだ」と行為自体の承認する発言はあまり見ません。問われたら言うのかもしれないけど)実際、バカにバカと言っている人の発言を追っていても、容姿や体型について相手を罵倒することはあまりないように感じます。

そこにハードルの違いが何かあるのかな、と思ってまず思いついたのは、ある人がバカであるという判断は議論や発言そのもののツールである「言葉」と関連が深いが、体型はそうではない。従って、太っている人の比喩とは相似形でないから、ということです。議論をするためのツール自体が壊れているので、議論自体が成立しないことを宣言するのにバカという発言をする、という解釈です。これが実際、正しいかは確かめようがないので、この前提で話を進めてみます。

同じ理論を太っている人に適用してみると、体型自体が議論のツールになっている状態であれば、太っている人に対してデブというハードルがもっと下がるのではないかということです。「体型自体が議論のツール」ってなんでしょうか。生き物の中には体色を変化させてメッセージを発するものがいますが、これをさらに高度に発達させた、体型で会話をする生物体を想定してみてはどうでしょうか。体型を変化させ、その組み合わせが言語になっていて、議論のときもそれを使います。

このとき、デブという罵倒へのハードルは下がるでしょうか。まだ足りない気がします。体型の視覚的状態が言語になっていて、それでデブと罵倒するハードルが下がるのだとして、それと相似形でいまの我々が実行可能な罵倒は「声が汚い」とか「文章が下手」とかそういうことになりそうです。「文章が下手」はだいぶ近づいてきている気がするのですが、そこから「バカ」というのにはまだ距離がある気がします。どうもコミュニケーションの形態を変更しても仕方ないようですね。体型そのものが脳のはたらきをするのはどうでしょう。体型そのものが脳のシナプスのような役割を果たすイメージです。……いや、しかし、こうなると、外形を表す「体型」というのと乖離してきます。無理矢理体型を脳シナプスにしてしまうと、個々の生物体というよりかはそれらの集合自体が生命のような様態を示すようなことまで想定しないといけません。こうなると、個々人の会話とかいうレベルではなくなってしまい、手に負えません。

うーん、うまくいきませんね。

やはり太っている人に対してデブという暴言を吐くハードルを下げるのは無理のようです。これはもう諦めるしかありません。もっとも、ハードルが下がったからと言ってそういう発言をして良いわけではないのですれけど。

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