Feedリーダーは必要ないと考えてたりしちゃったりする?
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ちょっと地雷踏んでいいですか?(弱気)
RSSリーダーの実用性がわからない、というエントリー に僕は非常に驚いてしまった。
このエントリーをしたひと(あ、もちろんどなたであるかは存じ上げています)は、Web2.0という流れについても否定的なようなので、そういわれるのも当然だとは思うのだけど。
ただ、Blogリーダーであるならば、僕も正直必要とはしていない。Blogから情報収集をしようとも思っていない。特に日本のBlogの多くはやはり個 人的な日記が多く、情報源として僕が閲覧させていただいているものは10に満たないから、わざわざBlogリーダーを使うことはない。友人の近況を知ると いうことであるならば、それはそれで意味はあるが。
RSSを出しているのは既にBlogだけではない、というより もBlog以外の発生源のほうが、既にはるかに多い。下の図はFeedBurnerのレポートにあるものだが、2003年にはブロゴスフィア (Blogosphere)とフィードスフィア(FeedSphere)はほぼ同一であったが、2005年にはBlogはFeedの発生源のOne of Themに過ぎない。つまり、FeedリーダーをBlogリーダーであると考えること自体が間違いであることが分か るはずだ。
となると、Blogを読むためのツール(Blogリーダー)として、その必要性を考えることはあまり意味がないのである。
(ふぅ・・・ちょっと怖いね(^^;))
■
Webサイトという肉体から幽体離脱するコンテンツ
思うに、Web2.0はデータコンテンツそのもののトラフィックなのだ。データ自体はネッ
ト上を自由に飛び回る。Webサイトという枠にコンテンツが内包されて動けない、という時代は終わった。RSSあるいはAPI、Webサービスを通じて、
コンテンツは幽体離脱するかのようにネット上を行き来するのである。
そしてそのコンテンツを集めて、ユーザーの好みに合わせた表示を行なう、つまりシンジケートするサービスが必要になる。 シンジケート (Syndicate) とは、異なる組織を緩やかな結合で管理するということだ。そして、 シンジケーション(Syndication)とは、シンジケートをすること、という意 味になる。
つまり、シンジケーションとは、個別のWebサイトが持つコンテンツを効率よく収集、あるいは組み合わせて管理する行為そのもののことだ。
こうして集めたコンテンツを消化する最良のソリューションとして、最も普及しているツールがFeedリーダーである。世界中に無限に広がるWebサイトの コンテンツの更新状態を常にとらえ、リアルタイムに近いスピードで更新情報をユーザーの手元に届けるというソリューションを、事実上無料でユーザーは手に することができる。これこそがFeedリーダー(あるいはその機能を持ったサイトやソフト)の存在意義である。
■
呼称ではなく本質をみてみる
Feedリーダーが単体のサービスとして存在し続けるかどうかは知らない。
ただ、Feedは自由なデータのトラフィックとして広がり続けるから、これを読む、あるいは受け取って再利用・再加工するツールは必要になる。 (Blog、という存在さえ、何年先まであるかは僕は分からない、と思っている。Blogの持つ特性すべてを普通のWeb が内包したときに、Blogという言葉は消えるかもしれない。でも、Blogが提案した特徴はその先も有効だ)
Web2.0時代のサイト作りで大事なことは、コンテンツを読ませたいのかサイトに来させたいのか、というラインが曖昧なサイトではダメだということで、そこを明確に分けることが戦略になるということだ。
コンテンツを読ませたい、ということであれば、どんなブラウザで読んでいても、どんなアプリで読んでいても、それはユーザーの勝手であって、サイトの運営者がコントロール出来ることではないはずだ。
繰り返すが、Feedは自由にネット上を飛び回ることを許されたデータが織りなす新しいトラフィックであり、その情報を受け取るためのツールを、現時点ではFeedリーダーと呼んでいるだけなのである。
Google Reader
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Feedリーダーの利用は都市生活者の感覚に近い?
Blogはコミュニケーションツールであり、トラックバックとコメント機能は、本来Blogサービサーが意図したよりもはるかに(日本においては)濃密な人間関係を強いるようになっている。いわゆる炎上はその表れだ。
しかし、実は多くのブロガーにとっては、自分のエントリーを読んでくれたかどうかは気になるが、コメントやトラックバックは(スパムの対象になりやすいこともあって)、少々重たいものになっているのではないか?Twitterに人が流れるのもそのせいな気がする。
よいたとえかどうかは分からないが、 これは狭い村落で濃密な空間を共有しているようなものだ。
都会のマンションで、隣に住んでいるひとの名前が分からないということはよくある。(僕も分からない。生活習慣が違うので、出会うことさえほとんどないから、顔も分からない・・・)
ただ、’それでなにか問題があるかというと、ない。万一火災等が起きれば互いに助け合うことは住民同士の暗黙の了解としてあるので心配はしておらず、普段 から敢えて人間関係を作っておく必要があるかと言えばないのである。顔のないコミュニティはマンションの中では存在している。
FeedリーダーはBlogリーダーではないと書いたが、仮にBlogリーダーとして使っていたとしても、自分のエントリーを誰かがFeedで読んでくれ ていればそれでいい。コメントをほしがっているわけではなくて、伝えたいことが伝わっていることさえ分かればいいのである、そしてそれは互いにそうだ。互 いに、と書いたものの、それはインタラクティブである必要はない、1対1ではなくn対nでいいのだ。
つまり、WebからFeedにトラフィックの量が移っていくと、ネット上のコミュニケーションの在り方は、ややクールになっていく。それを寂しい、と思う かどうかは別として、田舎の温かいけど少し息苦しい関係から、都会の淡々しているけど気楽な関係に移っていくのと同じことが起きているように思っている。
それを不服として、将来は都会を捨てる選択をするひともいるわけで、どっちがどうとかだめということはない、バランスの問題だし、個々の感性の問題だか ら。単に、社会全体としては都市化していくのと同じで、Feed化すれば、それがベースになっていく、と言っているのである。
(長文でした・・・・)
RSSリーダーの実用性がわからない、というエントリー に僕は非常に驚いてしまった。
このエントリーをしたひと(あ、もちろんどなたであるかは存じ上げています)は、Web2.0という流れについても否定的なようなので、そういわれるのも当然だとは思うのだけど。
■ FeedリーダーはもはやBlogリーダーではない
エントリーを見るかぎり、FeedリーダーをBlogの更新情報の告知を受け取るためのツールであると考えているから、そうおっしゃっているようだ。確か にBloglinesや、日本のポータル業者やBlogプロバイダーが用意するFeedリーダーの中には、Blogの記事を読むためのもの、あ るいはBlogの更新状態を知るために使うものとして設計されているものが多いようにも思う。つまり、Blogリーダーである、という定義をしたうえで サービス設計しているような感はある。もちろん、Blogリーダーとしてのフィードリーダーは現時点では需要が十分あるものと思う。ただ、Blogリーダーであるならば、僕も正直必要とはしていない。Blogから情報収集をしようとも思っていない。特に日本のBlogの多くはやはり個 人的な日記が多く、情報源として僕が閲覧させていただいているものは10に満たないから、わざわざBlogリーダーを使うことはない。友人の近況を知ると いうことであるならば、それはそれで意味はあるが。
RSSを出しているのは既にBlogだけではない、というより もBlog以外の発生源のほうが、既にはるかに多い。下の図はFeedBurnerのレポートにあるものだが、2003年にはブロゴスフィア (Blogosphere)とフィードスフィア(FeedSphere)はほぼ同一であったが、2005年にはBlogはFeedの発生源のOne of Themに過ぎない。つまり、FeedリーダーをBlogリーダーであると考えること自体が間違いであることが分か るはずだ。
となると、Blogを読むためのツール(Blogリーダー)として、その必要性を考えることはあまり意味がないのである。
(ふぅ・・・ちょっと怖いね(^^;))
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Webサイトという肉体から幽体離脱するコンテンツ
思うに、Web2.0はデータコンテンツそのもののトラフィックなのだ。データ自体はネッ
ト上を自由に飛び回る。Webサイトという枠にコンテンツが内包されて動けない、という時代は終わった。RSSあるいはAPI、Webサービスを通じて、
コンテンツは幽体離脱するかのようにネット上を行き来するのである。そしてそのコンテンツを集めて、ユーザーの好みに合わせた表示を行なう、つまりシンジケートするサービスが必要になる。 シンジケート (Syndicate) とは、異なる組織を緩やかな結合で管理するということだ。そして、 シンジケーション(Syndication)とは、シンジケートをすること、という意 味になる。
つまり、シンジケーションとは、個別のWebサイトが持つコンテンツを効率よく収集、あるいは組み合わせて管理する行為そのもののことだ。
こうして集めたコンテンツを消化する最良のソリューションとして、最も普及しているツールがFeedリーダーである。世界中に無限に広がるWebサイトの コンテンツの更新状態を常にとらえ、リアルタイムに近いスピードで更新情報をユーザーの手元に届けるというソリューションを、事実上無料でユーザーは手に することができる。これこそがFeedリーダー(あるいはその機能を持ったサイトやソフト)の存在意義である。
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呼称ではなく本質をみてみる
Feedリーダーが単体のサービスとして存在し続けるかどうかは知らない。ただ、Feedは自由なデータのトラフィックとして広がり続けるから、これを読む、あるいは受け取って再利用・再加工するツールは必要になる。 (Blog、という存在さえ、何年先まであるかは僕は分からない、と思っている。Blogの持つ特性すべてを普通のWeb が内包したときに、Blogという言葉は消えるかもしれない。でも、Blogが提案した特徴はその先も有効だ)
Web2.0時代のサイト作りで大事なことは、コンテンツを読ませたいのかサイトに来させたいのか、というラインが曖昧なサイトではダメだということで、そこを明確に分けることが戦略になるということだ。
コンテンツを読ませたい、ということであれば、どんなブラウザで読んでいても、どんなアプリで読んでいても、それはユーザーの勝手であって、サイトの運営者がコントロール出来ることではないはずだ。
繰り返すが、Feedは自由にネット上を飛び回ることを許されたデータが織りなす新しいトラフィックであり、その情報を受け取るためのツールを、現時点ではFeedリーダーと呼んでいるだけなのである。
Google Reader
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Feedリーダーの利用は都市生活者の感覚に近い?
Blogはコミュニケーションツールであり、トラックバックとコメント機能は、本来Blogサービサーが意図したよりもはるかに(日本においては)濃密な人間関係を強いるようになっている。いわゆる炎上はその表れだ。
しかし、実は多くのブロガーにとっては、自分のエントリーを読んでくれたかどうかは気になるが、コメントやトラックバックは(スパムの対象になりやすいこともあって)、少々重たいものになっているのではないか?Twitterに人が流れるのもそのせいな気がする。
よいたとえかどうかは分からないが、 これは狭い村落で濃密な空間を共有しているようなものだ。
都会のマンションで、隣に住んでいるひとの名前が分からないということはよくある。(僕も分からない。生活習慣が違うので、出会うことさえほとんどないから、顔も分からない・・・)
ただ、’それでなにか問題があるかというと、ない。万一火災等が起きれば互いに助け合うことは住民同士の暗黙の了解としてあるので心配はしておらず、普段 から敢えて人間関係を作っておく必要があるかと言えばないのである。顔のないコミュニティはマンションの中では存在している。
FeedリーダーはBlogリーダーではないと書いたが、仮にBlogリーダーとして使っていたとしても、自分のエントリーを誰かがFeedで読んでくれ ていればそれでいい。コメントをほしがっているわけではなくて、伝えたいことが伝わっていることさえ分かればいいのである、そしてそれは互いにそうだ。互 いに、と書いたものの、それはインタラクティブである必要はない、1対1ではなくn対nでいいのだ。
つまり、WebからFeedにトラフィックの量が移っていくと、ネット上のコミュニケーションの在り方は、ややクールになっていく。それを寂しい、と思う かどうかは別として、田舎の温かいけど少し息苦しい関係から、都会の淡々しているけど気楽な関係に移っていくのと同じことが起きているように思っている。
それを不服として、将来は都会を捨てる選択をするひともいるわけで、どっちがどうとかだめということはない、バランスの問題だし、個々の感性の問題だか ら。単に、社会全体としては都市化していくのと同じで、Feed化すれば、それがベースになっていく、と言っているのである。
(長文でした・・・・)
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