佐賀県知事選挙、暗黙の常識と「ツイッター学会会長」が負けた必然
全国的に注目され、私のブログ記事も注目いただいた佐賀県知事選挙。全国的には、中央対地方や安倍政権対農協とかで語られています。しかし、地元にいたら当たり前すぎる、だけど積極的には言いたくない「常識」があります。そこは敢えて書かないと伝わらないだろうということで、故郷の佐賀県を離れて長いために多少不正確になる心配もありますが、あえてそこを解説いたします。
主流の佐賀藩系と、少数派の唐津藩、鳥栖という佐賀県の政治地図
佐賀県は小さな県ですが、江戸時代には政治的に三つに大きく分かれていました。一番多くの人口と面積を占める外様大名鍋島家が率いる佐賀藩系、北部の唐津藩、そして、福岡に近い鳥栖の対馬藩田代領です。その佐賀藩も本家と分家が別れていました。外様大名の佐賀藩が閉鎖的であった一方、唐津は譜代の家が何度も変わり、開放的な風土で方言も結構違います。また、鳥栖は福岡に近く薬の商業で栄えたという土地柄でこれまた気風が誓います。樋渡氏が市長を務めた武雄市は、武雄鍋島家という分家が治める地域でした。
地域割りは以下のようになります。いかに佐賀藩系が広い地域を占めるか分かるかと思います。
武雄、唐津、鳥栖でのリードが不十分で、旧佐賀2区と佐賀市の反樋渡旋風に負けた樋渡氏
そんな、旧佐賀藩とそれ以外という区分けががある佐賀県で知事選挙で勝つ方法は2つになります。旧佐賀藩系の地域で支持を集めて勝つか、唐津・鳥栖の非佐賀藩系で圧倒的な差で勝ちつつ、旧佐賀藩系地域でも健闘して接戦に持ち込むかです。
今回、前武雄市長の樋渡氏は、唐津を地盤とする、古川前知事と結びついて自民党の推薦を得ましたが、佐賀藩側から対抗を擁立できれば勝てる、そんな状況だったわけです。衆議院旧佐賀2区を地盤とする自民の今村衆議院議員が樋渡氏の対抗馬擁立を断念に追い込まれましたが、同じ佐賀2区でライバルだった民主党大串氏が擁立したとは大学時代の同級生で白石つながりという縁がある山口候補にを今村議員は乗りました。一緒になって全力で応援しました。(2015/1/20 20:55 修正と加筆)旧佐賀3区を地盤として新佐賀2区に割り込んできた、古川前知事の立てた樋渡氏に乗るのは政治力学的にやりたくない選択肢だったと見えます。
結局旧佐賀2区の白石町と隣の江北町で町長が山口氏を推し、民主党に近い佐賀市長の三人の首長が反樋渡氏の山口氏をを積極的に応援しました。「農協の反乱」と報道されていましたが、むしろ旧佐賀2区プラス佐賀市で、反樋渡旋風が起き、組織選挙が機能して大きな差がついた、そう私は見ています。
穏健保守で弱者に寄り添う「保利2代」と大きく違う政治姿勢で、支援を受けきれなかった樋渡氏
旧佐賀藩系の地域で勝てたのはごく一部だった樋渡氏ですが、それでも、地元武雄と唐津で圧勝し、浮動票を掘り起こせていれば勝てるチャンスはあったと思います。実際、旧佐賀3区は2代にわたる保利王国として知られ、郵政選挙では自民非公認となり自民党公認の刺客候補を送り込まれますが、ほぼダブルスコアで5万票近い差をつけて一蹴しました。それだけの人気を丸々受け、武雄市でも圧勝していれば勝ち切るチャンスはあったろうと思います。
そうならなかったのは、穏健で保守な保利氏の政治スタンスと激して革新な樋渡氏の政治スタンスが真逆で支持が末端まで浸透しなかったから、そう考えます。もちろん農協の不支持も大きいのですが、パフォーマンス優先で目立ちたがって現場の苦労を気にしない樋渡氏の姿勢が受け入れられなかったそう見ます。そのギャップは、保利氏ゆかりの市会議員が、正月早々の選挙ポスターの張替えにあちこち歩きまわらされる理不尽さをブログに書いてしまうぐらいでした。また、唐津市では建設関係の汚職事件が大きく市政をゆるがしている最中で建設関係団体の支援も十分でなかったろうと見えます。
TwitterやFacebookなどのネットに人柄が証拠に残り、リアル世界に激しい人柄が伝わって負けた樋渡氏
最後に前のブログ記事でも触れたネットの影響度について。私は樋渡氏が日本ツイッター学会や日本フェイスブック学会をぶちあげニュースにして「実績」として売り込んだこと、図書館を宣伝したことなどがネット上に残り、批判を受け、現実とのギャップを明らかにしたことで、樋渡氏の問題が可視化され、反樋渡の動きを大きく育てたそうみています。地元武雄市でも多く集まった批判票は樋渡氏の活動の様々な影響ですが、樋渡氏が積極的にSNSを使い自身の言葉で語ったことでその激しい政治手法が広く知られることに繋がりました。これが、無ければ反樋渡氏の動きはここまで広がらなかったことでしょう。市役所という閉じた中での言動に留まらずネットに広がったことで、批判の資料が証拠と伴にコピーされた広まったようです。
2015年の佐賀県知事選挙は、数々の炎上事件と対応とで政治家の「本性」が広く伝わり、その結果、日本で初めて有権者の審判を左右した画期的な選挙だった、そう確信しています。