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言葉が自分を定義する

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"The limits of my language mean the limits of my world" (人の言葉の限界が、その人の世界の限界である(平野超訳))と言ったのは、哲学者のウィトゲンシュタインで、私も大変共感しているのですが、最近はさらにそれを進めて「人の言葉が、その人自身を定義する」と感じます。

 言葉とは、そもそもその人の考えを言語化したものですが、言語として発することで、その考えを自ら肯定し、それを繰り返すことで、自らをまた定義してしまうと感じるのです。

 この仮説が正しければ、言葉の軽い人は、自身も軽い人になり、言葉が乱暴な人は、自身も乱暴になります。「いや、それは逆だ」と感じる人もいるでしょう。しかし、考えてみてください。言葉とは、常に自分の内から外に発せられる一方的なものでしょうか?

 人は多くの言葉を聞き、その意味を咀嚼し、そして取捨選択して自分の言葉にします。そして、それを聞く人にとって、「言葉」はその人を理解するための重要な手段なのです。だから、社会の中において、その人がどういう人かという理解=定義は、その人の発する言葉によって決まり、本人がその言葉を変えなければ、それは自らも是ということになります。

 さて、「言葉」より重要なことが1つあります。

 それは「行動」です。「言葉」と「行動」が異なる場合、人は行動で判断します。しかし、ネットワーク社会が進むにつれて、直接会わずに繋がる、理解する、仕事をする機会が増えてきましたし、これからさらに増えるでしょう。20世紀の様に同じ場所に集まって仕事や活動をすることは減ってきます。つまり、一緒に活動する人の「日々の行動」が見えにくくなるということです。これは、相対的に「言葉」の意味が重くなることに他なりません。

 21世紀型の社会が進化するに従って、組織の規模や、社名や役職より個々の力が大事になります。すなわち、個々を磨くことも個人の責任にシフトしてきます。自らを磨くために、多くの人が「知識」、「経験」を重視していると思いますが、そこに「言葉」を加えませんか。自らが目指す未来の自分の姿に照らして、今日発する言葉一言一言を意識していきたいものです。

 自戒を込めて。

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