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もしも洞察力があったなら……。

「検討している」の価値や信憑性

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1月6日付日本経済新聞夕刊1面に、グーグルによるインターネット販売事業進出に関する記事が掲載されていた。内容そのものは、携帯電話業界の再編を示唆するものとして大変興味深く読ませてもらった。こうしたニュースをきちんと速やかに報道していく報道機関の姿勢に日ごろから頭が下がる思いでいる。

しかし、この記事中に、どうしても気になる一節があった。それは、この新たな携帯電話を日本でどのように展開するかということに対するグーグルの携帯部門幹部による回答、「検討している」という箇所。

わざわざ記事中にカッコ書きで「検討している」と記載しているわけだから、おおよそこの言葉はその幹部の方から得た言質と思われる。しかし、「検討している」、というのはどのような状態のことを指しているのであろうか。「検討」を主軸にした表現方法の本意を勝手に解釈してみた。

  • 「検討していない」=考えていない
  • 「検討しない」=行わない
  • 「前向きに検討」=やる可能性が充分ある
  • 「検討が進んでいる」=かなり高い確度でやる方向
  • 「検討している」=???

さて、このシンプルな「検討している」は、意思決定のどのような段階にあるものだろうか。私の解釈は、「実施の可能性を調査し、事業戦略に照らし合わせ議論し、やるかやらないかをいずれしかるべき機関で判断する」、というものだ。つまり、「今はわからない」に限りなく近いものだと理解している。しかし、新聞記事で「検討している」と記述された場合はどのように映るだろう?実態とは無関係に、実施可能性が高いものであるという文脈形成がされないだろうか。書いてあることの一語一語は事実だったとしても、形成される文脈に誤謬(ごびゅう)はないだろうか。

報道記者の視点では、日本市場を無視しての事業展開はありえない、とい前提が活きているようだ。私自身、そうであってほしいという願いも交えて、これには共感する。しかし、今日現在明確に「日本でも展開します」ということを確認できないからといって「検討している」という言質を記述することにフェアネスは介在しているのか。

ちょっと考えてみた。

将来それが実際に起こったときには“ほらね!言ったとおりでしょう?”となるし、実際に起こらなかったとしても“検討すると言っていた。結果成り立たなかったのは報道の責任ではない”と記事の正当性は貫けそうだ。つまり、どっちつかずの表現ととれる。しかし、私たち読者の視点では、「検討している」という言質は、良くも悪くも事実関係の文脈形成に役立ってしまっている。実態は曖昧さを冗長しているに過ぎないと思うのだが。マスコミの皆さんはどのようにお考えだろうか。


*本エントリーは当該記事への意見等ではなく、「検討する」という言葉遣いへの個人的な解釈や疑問を述べたものです。

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