地球人という考え方(その2)
取り急ぎ
このブログは当初「Earthbound」(アースバウンド)という名前にしようかと検討をしていました。そう、知る人ぞ知る、英ロックバンド、キ ングクリムゾンがカセットテープ音質で発表したという、”名盤”のそれです。で、アースバウンドとは、地表から離れられない、飛びたてない動物のことを指 します。私たちが自らに変革を望むのなら、アースバウンドから解き放たれよう、そんなことを思いながら。
地球人という考え方(その2)
地球人とは、星益を考える人のこと、と前回記しました。地球人の対極はなにか。それは宇宙人(あるいはスペースノイド?)です、って言ってしまった ら本当にただのSFになってしまうので、ここでは、ええ、違います。対極は「一個人」であるとしましょう。つまり、地球というマクロ、一個人というミクロ で思考することで、価値観はどのように変化をしていくのかを考えてみたいと思います。言い換えると、地表の視点と上空100kmの視点で見る、ということ になります。
*サンケイリビングのBizNextというビジネス誌4月号の巻頭特集は「Do you wanna go to the universe?」でした。リチャード・ブランソン氏が率いるヴァージン・ギャラクティック社は2009年には地表100kmの宇宙旅行で「地球を眺める」(Overview Effectというそうです)を実現するとのこと。しかし、通信衛星は高度3万6000kmだそうですから、高度100kmはまだまだ宇宙の入り口、といったところでしょうか。
*またまた脱線しますが、当のブランソン氏は、スティーブン・ホーキング博士が「人類には、地球でやっていたことを宇宙に持っていって、さらに効率よく行う以外選択肢はない。」という言葉を聞いて、宇宙についての思考を強めたそうです。(BIZNEXT4月号より)
とある雑誌への寄稿を進めていたときに、外国人の著者が念のためにその英文原稿を確認してほしい、という連絡がありました。内容は、外国人から見た 日本の組織について、でした。締め切りまでの時間があまりなかったので、早速確認。ふむふむ、と、その原稿を読み進めているうちに、なぜでしょうか、私の中にもやもやした気持ちが広がってきたのです。一部を要約すると、次のようなことが書かれていました。
「欧米型の組織では、個人の成果は直接的に評価され、その集大成として組織の成果が評価される。しかし、日本の組織では、個人の評価が直接的に評価されることは稀で、個人が一生懸命がんばっても、基本的にはチーム全体のものとして評価される。つまり、その反対に、全体の成果が芳しくなかった場合に、その責任が個人に帰属しないようにする、責任者不在の構造となっているのだ。」
いつから日本の企業はそのように思われるようになったのでしょうか。いや、少し譲って、この著者は、批判をしていたわけではなく、構造上の相違点を指摘していたに過ぎないのかもしれません。しかし何がそのような指摘を導いたのでしょうか。
今回思考をめぐらせてみたいのは、説明責任の価値に関する相違です。
ビジネスの現場(ミクロ)視点で人と相対をしていれば、その相手の人が言っている内容を、表情や態度、姿勢や語調とともに、その意思と意味を読み取り、理解することができます。つまり、クウキヲヨムと呼ばれるコンテクスト(文脈)重視のコミュニケーションはこうした現場(ミクロ)の視点環境でとても有効と理解することができます。このコミュニケーションが加速すると、「言わなくても判るだろう?」という一見ニュータイプなコミュニティを醸成するのです。このコミュニティでは、チームの成果や失敗が個人に明示的に帰属することはなかったとしても、そうであるのと同様のクウキが醸成されます。このクウキすなわちコンテクスト(文脈)は、見たこと、聞いたことを論理的に解釈するコンテント(内容)重視のコミュニケーションしか知らなければ、(プロトコルが異なるため)理解することは難しいでしょう。クウキを読めなければ、こうした輪の中には溶け込みづらいのです。
結果、往々にして、コンテクスト重視の外国の方から見た日本は、論理的な説明はそれほどないのに、なぜこれほどの生産性を築き、世界に冠たる大国になりえたのか。深い、深い謎を残すことになったのではないでしょうか。
*経済大国:日本のGDPは2007年の名目で516兆円と相変わらず世界第2位ですが、世界占有率は8%台。十数年前の半分以下になっているとのこと。(4/15日本経済新聞27面)
*日経ビジネス4月11日号は「日立とニッポン」という特集でした。特集の末節では「日本は米国になれないし、日立は米国のGEにもグーグルにもなれ ない。しかし、”だからダメ”なのではない。」「日本には”日本にしかできないこと”がある。それを愚直にやりぬいた時、世界は再び日立とニッポンに期待 のまなざしを向けてくれるはずだ。」(同誌42pより)世界が”ジャパン・パッシング”をしたい理由は、相対的な新興国の隆盛だけではなく、愚直にやりぬいたことを私たちが充分に海外諸国の投資家に説明をできていないからかもしれません。
一方、ビジネスのマネジメント(マクロ)からの視点によるコミュニケーションは、相手に合わせてテーラーメイド(個別対応)するのではなく、コミュニケーションの対象となる相手全体に通用することが必要です。つまり、相互に発信するメッセージ&情報は言葉で発していなければならず、プロトコルが普遍的であるかどうかが重要になってきます。そして、発言した内容こそがすべてで、そこには「言わなくても判るだろう?」は存在しません。
*ちなみに、コンテクスト(文脈)重視のコミュニケーションは、1)初めて話をする、2)外国の人、3)通信手段が電話やメールのみの場合はほぼ役に立ちません。これらのシーンでは大抵コンテント重視のコミュニケーションが行われます。つまり、ダイアログ(対話)では発信したメッセージ&情報への説明責任が常に問われるのです。
説明責任の観点では、普遍的な説明を相手にできて、やっとコミュニケーションが成立していきます。自らのステイクホルダーにクウキを読んでもらおうとするのは、現場(ミクロ)には成立しても、マネジメント(マクロ)には成立しにくいということになります。
さて、グローバルカンパニーに当てはめてみると、ざっとこういうことです。
現在進行中のとあるプロジェクトでは、自分自身や、直接協業している同僚Aや、場合によっては現場に一緒に入っている直属の上司Bとの間で、きちんと進捗や成否が日々共有、理解されているとします。毎日行われるメールでの報告では、報告内容以外のチームのがんばりぶりや、中でも特に成果を挙げているとされる人物を含め、部門の評価は極めて高いというクウキが日本法人の社内で醸成されています。
では、その上司Bのさらに直属の上司Cが、アメリカ西海岸に住むインド人で、標準言語が英語、毎週の定例報告会は顔の見えない電話を使う場合、B氏はどのように上司に報告し、高評価を醸成し、チームを纏め上げていくべきでしょうか。
正解は様々。条件設定はかなり大雑把なので、数多のことが想定できます。しかし、何はなくとも、必ずしなければならないことは、上司と部下の双方に説明責任を果たせるような情報の収集とメッセージの構築をしておくこと、と考えます。組織という枠組みでマネジメントを行う場合は、ミクロでコンテクスト満載のコミュニケーションをしたとしても、常にそれをコンテントに変換し、自分のチームや上司というステイクホルダーに説明することで、ようやく相互に理解を求めることができるのです。
まとめ
今回の思考は、現場というミクロなコミュニケーションはコンテクスト(文脈)重視のクウキヲヨムことで成立し、マネジメントというマクロなコミュニケーションは、説明責任を意識したコンテント重視のコミュニケーションが必要。そして、グローバルな現場とマネジメントはこの双方の視点が不可欠、というものでした。
次回予告:匠とテンプレートから学ぶ日本の競争力(長いか?)
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