「幸せな人は不幸な私を傷つける」弱者の立場を利用して意見を通す人
私の知人で、ある音大の門下生同窓会幹事をしている人がいます。
その方とお話したとき、ちょっと考えてしまったことがありました。
その方が言うには、「年に一回全員に会員の近況などを書いた会報をお送りしているけれど、ある人から『辛いから送らないでほしい』と言われた」のだそうです。
理由は「今、いろいろあって、まったくピアノが弾けていない。会報に他の人が活躍している様子を見ると辛くなる。」と言うのです。年に一回だけも難しいのだそうです。
幼い頃から努力して勉強してきたのは同じです。でも、周囲がさらに努力している姿を見ると、自分だけが取り残されてしまったかのような気持ちがするのは仕方ないことかもしれません。
私も、腱鞘炎で弾けなかったときは、友人が次々と活躍している知らせを受けると、気持ちが揺れることもありました。しかし、それでもお祝いの連絡をしたり、リサイタルに行けないときは当日ホールにお花を送ったりしていました。
その方が、友人に対する礼儀だけではなく、自分の気持ちが安心して癒されるからです。一つ行動するたびに、心の刺がポロリポロリと落ちていくような気がしました。
逆に、もし辛くなって「報告を送らないでほしい」と言ったとしたら、後からずいぶん後悔したと思います。
しかし、会報を見なかったとしても、現代の社会、嫌でも情報は自然と目に入ってきます。情報にすべて目をつぶるほうが至難の業。
結局「送らないで」というのは、「私の気持ちを分かってほしい」という表現ではないかと感じました。
しかし幹事さんもボランティアでやってくださっているので、お知らせをしてくれるだけで有り難く、それ以上に手間をかけさせたくないという思いはあります。私は、同窓会の管理をしてくれている、というだけで感謝ではないかと思いました。
「私の気持ちも分かってほしい」「私を見てほしい」
という思いは誰でも持っているものだと思いますが、エゴを野放しにしておくとモンスター化する場合があると思います。
最近「繊細チンピラ」という言葉を聞いて、納得してしまいました。
参考リンク→ネットの進化とともに増加する”繊細チンピラ”とは?
SNS名物、「自分に欠けている何かを持っていることに無自覚な他人の発言を勝手に自慢と受け取って激昂する人」です。
・・・・・(以下引用)・・・・・
もし誰かが自分に欠けた何かを持っていることが少しも苦しくなかったら誰もそれを得ようと努力しない。苦しみたくなければその何かを得るか、自分の価値観を変える必要がある。
苦しみの解決を自分でなく他人に任せようとすると、「幸せな人は幸せそうにしているだけで不幸な私を傷つけるので一生黙っててください」というようなクレームをしらみ潰しに繰り返すしかなくなる。
行動が常に監視されている環境下では弱者が最強になる。誰かにとって有益な行動でも、「傷つくのでやめてください」の一言で止めさせられる。被害者の立場で居続けるためにみんな弱い部分を曝け出す・・・
「傷つくのでやめてください」の一言で自分の不快なものをこの世からなくそうなんて、暴力と同じ。だからこういうふうに弱者の立場を利用して意見を通す人に、畏敬の念を込めて”繊細チンピラ”と呼ぶ
・・・・・(以上引用)・・・・・
弱者の立場を主張することはリアルな場でも多く、困ったこともありました。
ただ、SNSでは匿名にすることで、人間のエゴがむき出しになり、エスカレートしやすくなるような気がします。
しかし、上には上があるのです。
それは、世界の果てまで行っても続きます。
「しらみつぶし」を一生続けるわけにはいかないのではないでしょうか。
誰でも持っているコンプレックスに対する苦しい気持ちは、いつかどこかで、早めに解決することが人生にとって大事なことではないかと思います。