上段者の苦悩
モーツァルトを主人公にした映画「アマデウス」。
この作品で印象的な場面があります。
モーツァルト留守中に訪れたサリエリが、作曲されたばかりの譜面が、部屋に置きっぱなしになっているのをついつい手に取っしまうシーンです。
作曲家の方と話していたとき、「この映画では、このシーンが一番良いね」と二人で納得したものです。
作曲家が言うには、「これはすごいソルフェージュ力だ」と言います。
ソルフェージュとは、楽譜を読んだだけで、すぐに音楽が再現できる能力です。
モーツァルトの譜面をみただけで、あたかもその場で演奏されているかのように、天上の音楽がサリエリの頭の中に鳴り響きます。
そのときのサリエリの恍惚とした表情。
これだけでも、サリエリの実力が相当のものであるかがわかります。
しかし、音楽史上あまりにモーツァルトが光輝きすぎて、モーツァルトの陰に隠れるように存在するサリエリ。
一方、アマチュア音楽家の皇帝は「音が多すぎる」と言ってモーツァルトの音楽の素晴らしさがいまひとつ分からない。
私は、このとき思いました。
上段者は上段者のことが見える。
下段者は上段者のことが見えない。
上段者であるがゆえに、モーツァルトの素晴らしさをどんな人よりも理解し、苦悩し、そして愛した。
映画の最後では、サリエリの強いエゴがモーツァルトの命を奪う。
宮廷音楽家として成功を手にし、生活に困るわけではない。
足るを知り、努力により培われた才能で、生きていくこともできた。
しかし、それは出来なかった。
上段者ゆえの苦悩や悲しみをみる思いがします。
サリエリが、自分のエゴをみつめ謙虚さをつかんだとしたら、映画はあまり面白いものではなかったかもしれません。
このエゴとは誰にでもあるもの。
「そうだ、そうだ、そういう自分、いるんじゃないか。」
その共感が「アマデウス」の物語を長きにわたり紡いでいる。
弱きものであると思うときの、情けなさ。
やればやるほど「なぜこんなことが出来ない」と思うそのもどかしさ。
でもそれが感じられる自分がいること。
それだけでも上に向かって一歩前進しているのだと思っています。