男女の差とはあるのだろうか
今年(2013年)5月、ヒマラヤ山脈の8,000メートル級の山、ダウラギリで、河野千鶴子さん、66歳が、遭難して亡くなりました。
河野さんは50歳になってから登山を始め、7大陸最高峰など、世界の山に挑んだ女性登山家です。6/11、NHKクローズアップ現代にて、河野さんの死を取り上げ、女性の生きにくさについて特集されていました。
河野さんは、一般的なグループでパーティを組んで登頂するスタイルではなく、個人で登る方法をとっていました。
そのスタイルをとったきっかけとは、女性の「生きづらさ」にありました。。
河野さんは、その生い立ち、看護師として働いていた職場、また家庭でも、女性だからという理由で可能性に限界を設けてしまうことに対して、悩み続けていました。
しかし、山は、女性だから、男性だからと言って差別しない。そこが山の魅力だったのです。
しかし、その山においても、パーティで登ると、女性ということで、体力的に弱いということで差別されたような感覚、意識がある。誰かの判断で限界と決められてしまうことに反発を覚えたのです。そこで個人で登頂するスタイルを目指すことになったと言います。
しかし、最後は、ダウラギリの山頂まであと100メートルというところで力尽きてしまった。この最後については、もしかしたら、女性、男性、区別はなかったかもしれません。
ただ、どんなジャンルにおいても、男女の差というものはあります。
例えば、音楽のコンクールにおいても、ほとんどのコンクールは男女一緒に行います。
そうすると、やはりどうしても、女性は女性の強みを出すような演奏方法が必要になります。
そういうことは、生きていく上で随所に現れます。
最近、ある音大の教授の先生がおっしゃっていたことで印象に残っている言葉がありました。
ベートーヴェンについては、女性の演奏を、試験やコンクールや、演奏会で聴くたびに何かの違和感を覚えていた。
それが何か分からなかったのだが、最近気がついたことがある。
それは、ベートーヴェンの音楽を女性の感性で演奏してしまうこと。
そうするとベートーヴェンらしさからは少し外れてしまう。
そういうとき、どうアドバイスするか。
「青年ベートーヴェンを演じるつもりで」と言うのだそうです。
ベートーヴェンがどんな人だったか。
残された手書きのスコアや、手紙、文献などから想像することができます。
無骨なものの言い方をし、激しい性格であったといわれています。
そこから、女性がベートーヴェンをイメージして演奏することが必要なのだということです。
それは、私自身もよく感じていたことでした。
だから、学生時代課題として与えられれば弾きましたが、今は自分からすすんでベートーヴェンを弾くことはありませんでした。
しかし、今は様々な情報や文献が豊富な時代。勉強をして、女性でも想像力を豊かにして、ベートーヴェンを演奏することは出来るのだと思います。
河野さんの「自分の足で1歩1歩、歩きたい」という言葉が印象的でした。
河野さんは、その最後まで自分の人生を精一杯生きられたのだと思います。