褒めて伸ばすの落とし穴 褒めるとき自分が何を思うか知っているか
「褒めてのばす」
よく言われる言葉です。
私の経験からですと、やはり子供の場合は褒めるのが一番だと思います。子供のとき褒められた経験というのは、大人になっても心の支えとなります。
日本経済新聞7月2日夕刊に昭和電工相談役の大橋光夫さんが「子供は褒める」という記事に子供の頃先生から褒められた思い出を書いておられました。
・・・・・(以下引用)・・・・・
本当に褒められたかは疑わしいが、小さな胸の中に自信の灯が点った瞬間だった。あれがなかったら、私は一生ダメ男で終わったかもしれない。子供はとにかく褒めることだ。褒められればのびる。自分の存在を認められるのが一番うれしいのだ。甘やかすのとは違う。子供は、とにかく良いところを探して、無理やりにでも褒めてやろう
・・・・・(以上引用)・・・・・
子供の心に灯を点す。素晴らしい先生だと思いました。
ただ気をつけたいところがあります。
褒めるとき、大人の人でも子供でも同じですが、「やる気になってもらうため」「成果を出してもらうため」と思って褒めると、不思議なことですが、褒めているときの操作主義が伝わります。
褒められて嫌な気持ちになる人はいませんが、敏感な人は、褒めているときの相手の心の動きを微妙なニュアンスや目線から感じ取ります。
それは、褒めているつもりでも逆効果。「褒め殺し」にあいます。褒められて伸びることはありません。
それでは、どうすればいいのか?
本当は、今ここで褒めるべきところ、言わなくてはならないところ、冷静に判断するのが伝える力、または指導力ともいえるものだと思います。
実は、少し苦手な人もいます。人間ならソリが合わないという人はいるものです。
しかし、素晴らしさを伝えたいという思い、そしてその人の人生の時間をお預かりしている、そのことを思うと、一旦始まれば、全力でお伝えするようにイヤでも身体や心が自然に動いてしまうのです。教えているときもう一人の自分が「お前何してるんだ」と言うほど入れ込んでしまう。ソリが合っても合わなくても同じになってしまいます。
子供のころ手ほどきしてくださった師匠が、未熟な私にお夕飯のお時間まで割いて教えてくださった、あの思いを、今お返ししたい、その気持ちがむくむくと心の底からわきあがってくる。冷静かどうかというのとはまた違った感覚なのです。
褒めるときも言うべきことを言うときも、心の底からわきあがったものが言葉になって出ている、と言う感覚。だから後から考えたら、なぜあのときああいうことを言ったのか?不思議に思うこともあります。
ただ、そこには、思いやりの優しさが必要だと思っています。
最近レッスンにうかがったのですが、師匠は「その場所、ペダルは踏みっぱなしでもきれいに入っている。でもベートーヴェンの初期の作品であったら、そこは踏み変えるのがいいと思う」と、言うときの優しさが感じられる。数多く逆の立場に立った経験をしてきたので、この優しさが本当に救われると思いました。
一昨日、下校時の児童たちに刃物で襲い掛かろうとした犯人を、71歳の男性が阻止したというニュースを見ました。自分の子供でもない小学校の子供たちのために危険を省みず動いたその男性は「怖いというよりこのままでは子供たちがやられてしまう。そう思ったら身体が勝手に動いた。それだけの気持ちでした。」とおっしゃっているのが印象的でした。
誰にでも出来ることではありません。
しかし、究極の形がここにあると思いました。
良心を信じれば、身体が動く。
人を見て説けと言われる対機説法も、良心からくる優しさなのだと思います。
心の底から出てくる自分のことばを信じる。
それが本当の「褒める」ことだと思っています。