書類をバサッと放り投げて置かれるとあまり良い気持ちがしないのはなぜか
よく、書類や郵便物、楽譜などを机の上にバサッと乱暴に投げる人がいます。
ご本人は、まったく悪気もなく、何も気にしていない様子なのです。
しかしそこには、漫画の吹き出しのように「あ~あ・・・!」という何か投げやりな声が聞こえてくるような気がしてしまうことがあります。
例えば一生懸命作った資料などを渡したとき、「あ、そう。後で見とく。」とおっしゃり、何気なく無造作に放り投げるように置かれると、あまり良い気持ちにならないことがあります。
以前、あるタレントさんと離婚した女優さんが、幼い頃うけたPTSDの症状を発症してしまい、「家に帰ると、届いた郵便物をテーブルの上に無造作に投げる動作がとても苦痛だった」と話しているのを聞いたことがあって、その気持ち少し分かるなあ、と思ったことがあります。たぶん、置いた方も、なんの悪気も無かったのではないかと想像しています。
ここから先は私の考えです。
自分は、そういうことをしないように極力気をつけています。
人からいただいたもの、受け渡されたものは、出来るだけ心を込めておく。
それは、人への思いやりということだけではなく、一つの深い意味を感じるからです。
「全体が見えているか。見通せているか。」
ということです。
以前、お茶の家元もなさっている会社経営者の方の初釜にご招待されたことがありました。
そのとき印象深かったことがあります。
高価な茶の道具を持つとき、「軽い物は重く持って、重いものは軽く持ちなさい」そして、貴重な茶器を恐る恐る持つ私に対して、「自然に持って置くときは想いを込める」とお教えてくださいました。
しかし、これはやってみると難しいもので、ただ言われたとおりしただけでは美しくありません。今、自分がどの流れの中にいて、どのような想いでこの茶器を置くべきか。全体が見えていないと、やはり良い余韻を持って終えることができないのです。私は、この余韻に一つの所作を終えるときの「残心」を感じました。
仕事でも何でもそうですが、ただ丁寧に終えれば良いというわけではありません。
「なぜ、こう終えるのか」というのが見えなくてはならない。それには、どのような順序で行われて、どこに優先順位をつけるかの見立てから、周囲の方々やスタッフの気持ちからすべてを見通す力を持っているかどうか、が問われるのではないでしょうか。
仕事を一つの命を持った生きたものとして扱い、その全体流れを見通した上で、誠心誠意をもってフィニッシュする。そして、そこには深き残心がある。
私は、良き仕事をするプロフェッショナルや、一流の演奏家には、その力が備わっているように思えます。
人物から感じられる気高い気品とは、物を置く動作一つからでも深く感じられるのだと信じています。