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ライフワークとしての学びを考えます。

人の不幸は蜜の味 他人の不幸を喜んでなぜいけない

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人の不幸は蜜の味と言われます。
 
ワイドショーや週刊誌をにぎわせるのは、たいてい有名人の不幸な出来事です。
それでも足りなくて、一度持ち上げた人を落として記事にする。二人集まれば、自然と人の悪口に花が咲いてしまう。
 
他人の身に不幸が起こると喜ぶ、という本来どんな方でも持っている人の業を感じずにはいられません。私も、そんな自分が嫌になり辛くなったことが何度もあります。
 
しかし、人生において、努力していたとしても、ふとしたことで堕ちていくことはあります。
社会的に華やかな栄光を手にしていたものの、ちょっとしたきっかけで社会から追われ、非難されるような立場になった方ほど、世間は冷たく、好奇の視線を浴びせることでしょう。
 
そんなとき、力になって差し上げられるか、力になれなくとも無条件に励ましの言葉をかけて差し上げられるか、と考えます。
 
また、幸運にも良いことがあったとき。
そんなときにも、心からお祝いの言葉を言ってあげられるか、と考えます。
 
自分ではどうしようもない苦難や、全ての状況が変わってしまうような経験をすると、神さまなどいないと思っていたのに
「神様、もし救ってくださるのなら、人のために、社会のために生きます。人に感謝します。人を許します。私は今まで十分幸せでした。だからお願いします。」
と思わず手を合わせている自分がいることに気がつきます。
暗い顔をしていたらもっと辛くなる。笑顔でいるようにしていれば少しは救われますが、心では泣いていました。
 
子供の頃からとても才能のある先輩がいました。
幼い頃から英才教育を施され、コンクールを総なめにし皆の羨望の的でした。負けず嫌いで、人を押しのけるようなこともしていたと思います。
 
最近会ったら、あの華やかで勝気だった彼女の様子が変わっていました。
結婚した先で、義理の親が深刻な病気であることがわかり、介護をしているといいます。子供さんもまだ幼く、本来活躍すべき人なのに、ほとんど勉強していないようです。小柄な彼女が、倒れた親に声をかけながら背負って車に移動し、病院に連れて行った話しを聞いて、胸が痛くなりました。
 
励ましたいのに、言葉がすぐには出ません。やっと「辛いですね・・・。」としぼり出すような声でしか言えませんでした。
 
辛いことも、惨めなことも、ないなら越したことはないと思います。幸せなだけで一生過ごせたら、どんなにいいかと思います。
 
しかし、愚かなもので、自分が痛い目に合って初めて人の心が骨の髄から響くようになります。
 
エゴが消えたとはいいません。今でもはっきりと存在しています。
しかし、そのエゴを乗り越えようとする、しっかりとした芯のようなものが、少しずつですが自分の中に出来てきたのではないかと感じています。
 
他人の不幸を喜ぶのは決して蜜ではありません。人の心の中にあるエゴという泥の沼で溺れているごときもの。
 
泥の沼から、静かに咲く蓮の花のように。
もしそんな人生を歩むことができたなら本望です。

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