「皆さんのためを思って」と言ったあと、とても恥ずかしくなる
言った後、自分が恥ずかしくなることがあります。
忘れられなくて、時間がたてばたつほど自己嫌悪で押しつぶされそうになることがあります。
「私はみんなのためを思って言っているのです!」
良かれと思って言った言葉なのに。決してネガティブな言葉ではないのに。どうしてあんなこと言ってしまったのかと責める。
「私を乗り越えろ!君たちなら出来る!」
指導に熱が入り、興に乗ったのでしょう。カリスマ指揮者が100人以上の楽団員に叫んでいることがありました。
一見、皆を叱咤激励しているように見える。
しかし、聞いていてなぜか恥ずかしくていたたまれない気持ちになってしまう。
なぜなのか?
実は、「みんなのため」ではない。
自分のエゴが叫んでいる声が聞こえる。
「私の思い通りになりなさい。」
「乗り越えろ」の後ろに「この私をしょせん乗り越えられるわけない。私を尊敬しなさい。」という声が聞こえて来る。
そこに、ひそやかな傲慢さを感じるからです。
エゴが身震いして喜んでいるのが見えるからです。
エゴとは、威張ったり、わがままであったり、という分かりやすいものではない。
本当のエゴは狡猾で賢く分かり難いのです。
良い人であろうとする。その空虚さの中に、知らないうちにスッと忍び込む。
ジッドゥ・クリシュナムルティが「この女性はなぜこのように”環境破壊”について声高に叫ぶのだろう」と言っていた、という講話をうかがったとき、妙に納得できる自分がいました。
凶悪犯罪のニュースを見るといつも思います。
もしかしたら、一歩間違ったら、これは自分であったかもしれない。
その方は不幸にも「そうならなければならない道」を歩まれてきたのだと。
作曲家のベルリオーズ。
婚約者に裏切られ、彼女を殺そうとピストルを持ち、女装して馬車に乗り込む。しかし、なぜか思いとどまった。
彼は自分の作品「幻想交響曲」の中で、恋人を殺して断頭台に上がり処刑され、地獄に落ちて悪魔との饗宴を描く。クレイジーなまでの凄まじいエゴを作品の中に封じ込める。
マーラー作曲の交響曲第五番。浮気をした妻アルマにあてたラブレター。しかし、彼の音楽は分裂的に、あるときはヒステリックなまでにエゴが暴れまわる。
もしかしたら、エゴはどんな人にも存在するのではないか?と音楽からもエゴの存在を感じることができる。
エゴを無くすことはできない
押さえ込もうとすればするほど自分を苦しめる。
それならば、そんな弱い自分の怖い心の動きに気がつき、エゴを静かに見つめられるようになりたい。
分かっていればよい。柔らかく、しなやかに。
将来、そんな世界に入っていけたら思っています。