オルタナティブ・ブログ > 大人の成長研究所 >

ライフワークとしての学びを考えます。

言葉にするとは何か

»

精神がピシリとして居住まいを正したくなる。しかし、心はものすごく高揚している。理由は説明できないのですが、その後猛烈に勉強したくなる。
 
そんなときがあるのですよね。
 
アルド・チッコリーニを聴きに行った師匠は「私、ものすごく元気になってあの後すぐ、夜中に中央高速とばして長野の別荘に行ったわ!」とおっしゃっていたことがありました

 
最高の賛辞だと思いました。
 
「チッコリーニはここでペダルを踏んでいた」とか「テンポを変えていた」とかそんなことを言わなくとも、いかにその演奏が凄かったか伝わってくる。私もその場にいましたが、音楽だけを感じさせる、御年80歳半ばという大巨匠、チッコリーニという存在を忘れさせるような音楽。
 
何もしなくともよい。
 
「天下無双」
 
まさにそんなことばが口をついて自然に出てくる。
 
言葉では言い表せない何か。言葉にしてしまいたくない何か。評論してしまったとたん価値が下がってしまうように思えるほどの大事な体験。
 
それは音楽だけではない。
真剣に向かい合ってこられる方の講義。
あまりに集中してしまい、メモをとることさえできない。
しかし、メモなどとらなくとも言葉の詳細まで明瞭に記憶している。
 
乱れている心が見透かされ、焼け火箸をつきたてられるように不動心という言葉が心に突き刺さる。
そして、表現者の風圧を感じ、吹き飛ばされそうになりながら、ただただ必死に椅子にしがみついているだけの小さな自分がいる。
 
言葉と音楽。
そこに言霊が宿るとき、同じようなことが起こるのだと、そう感じました。

Comment(0)