才能がないとあきらめてはいけない やればやっただけ上手くなるものがあります
長距離走。
これは、かなりのレベルまでいくと思います。
マラソンの場合、私はコーチの指導によって無駄のない走りを学び、コツコツと走り続けることによって郊外の小さなレースならすぐに入賞するまでになりました。
そんな努力した覚えはないのですが、すぐ速くなってしまったのです。
もちろん、オリンピックや正式な国際的なレースに出るような選手とは違うと思いますが、片手間に練習をやっていて、こんなに才能のない私でも身体能力が簡単にアップするということが、面白くて仕方がありませんでした。
長距離走は、20歳過ぎに始めても全く問題なく走れるようになります。
しかも、走れば走るほど必ず上手になり、練習は裏切りません。
音楽のように主観的な評価ではなく、数字で評価が出るのもまた嬉しいのです。
練習時間=実力→評価
長距離走はこの公式が成り立つのです。
しかし、短距離の分野になると生まれ持った筋肉などの性質から、なかなかこうはいかない、とランニングのコーチから聞いたことがあります。
もう一つ、この公式が成り立つジャンルがあります。
例えば、大人になってから、
「これから初めてピアノを弾きます。今まで楽器は何もやったことありません。音符も読めません。でも演奏会でお客さんから入場料をいただくくらいにまでなりたいし、コンクールも受けたい。本場ヨーロッパでコンサートもしたいです。将来は有名な作曲家に自分の曲も作ってもらいたい。ぜひ教えてください。」
といわれて、「ハイ大丈夫ですよ」とはちょっと良心がとがめて言えません。
ピアノは、小さい頃に、何歳までに、『絶対コレをしておかなくてはならない』ということがあるのです。
そこを逃すと、その後の苦労は何倍にも跳ね上がると思います。
ピアノやバイオリンの個人技の世界は、いかに早く始めたか、そしてやはり適正や才能があるのです。
これが出来るのは、クラッシック音楽の分野でいうと一つしかありません。
合唱です。
訓練次第では、本場ヨーロッパでも通用する演奏が十分可能だと思います。
歌は器楽と違い、わりと遅く始めてもある程度までは上手になります。
ただ、いくら歌が上手いと言っても、たった一人で何百人もの聴衆を満足させるような演奏ができる人はそうそういません。
そこが、歌の難しさ。
「歌はだれでもできるけど、本当はどんな楽器よりも才能が必要」と言われています。
体という楽器が決まっていて、どんなに頑張っても買い換えることができません。歌に向いている骨格や身体能力というものがあり、最終的には努力ではどうにもならないところがあるのです。
その点、合唱は全員がプロ級のレベルでなくても素晴らしい演奏が出来ます。
なぜでしょうか。
それは合唱が「アンサンブル第一」のものだからです。
上手い人も、そうでもない人もいたとしても、お互いがカバーしあい、協力しあうことで、必ず良い音楽ができます。
もし、一人一人がプロ級に上手でも、オペラ歌手のように自由自在に歌ってしまっては、バラバラの音楽になってしまい、良い合唱とはいえません。
合唱は皆で気持ちを一つにして、神輿をかつぐようなもの。
ただ、声や気持ちをハーモニーするための絶対的な練習時間は、ある程度必要です。
これさえクリアできればこんな夢のある世界はありません。
才能があるかないか、関係なくできる音楽があるのです。