安全保障の本質
大上段なタイトルだが、私が安全保障の本質を分かっているというわけではない。ただ、米国の核先制不使用の提案に対して、北朝鮮への抑止力がなくなるから、決議に棄権するという日本政府の対応が、日本国憲法の理念や原爆被弾国として首尾一貫しているか、そしてそれが本当に我が国の安全保障につながるのか、もっと考えるべきではないかと思うのだ。
米国が核を先制使用する可能性があるから、北朝鮮は我が国に対して軍事行動を起こせないのか?核の存在が抑止力の全てなのか?このあたりに、我が国政府の国際政治や情勢の読みに関する基本的な弱点があるように思う。どうも「きっと米国が核を使用する可能性があると北朝鮮も簡単には動けないだろう」という漠然とした感覚論で政府の決定がされているように思えてならないのだ。だが、広島と長崎の経験を有する我が国が、常に核兵器やその使用に反対する一貫した姿勢を示すことこそが、我が国の平和への希求、核への反対を国際秩序の中で明確に位置付けるものであり、それが我が国の国家としての安全保障にもつながるのではないか?
どうも、現政権は集団的自衛権も含めて、軍事力にのみ安全保障が依拠していると極めて幼稚な考え方をしているように思える。だが、何らかの理由で我が国の国際社会との関係が損なわれれば、例えば特定の国の特産品は輸入できなくなるのであり、島国の我が国においては、国民生活に欠かせないもので、輸入に依存している物資の比率は極めて高い。石油など燃料資源はもとより、食糧にしても自立には程遠い。そして、仮に国内で農業などを通じて相応の食糧を確保できると仮定したとしても、実はその生産にかかる機械を動かすための石油がなければ、実際に食糧を確保することは出来ない。要は、軍があったとしても、国際社会と経済・社会的につながっていなければ国家の安全保障は成り立たないのであり、平和を理念とする憲法を有する我が国としては、軍備ではなくより平和的な手段で国家の安全保障を確保する考え方をそもそも取るべきだと思うのだ。
一方で、海外の方々が、次々と我が国の土地や建物、水資源などを買収していることに着目すると、仮に何らかの紛争状態になった場合に、国土ですらすでに海外に奪われており、且つ獅子身中の虫が存在するということにもなりかねない。もちろん国際交流は国際社会における地歩を確保する上で重要だが、特に土地所有権などについては、制限している諸外国も多々あることであり、何らかの規制も検討しても良いかもしれない。要は、軍備に代表される手段だけが安全保障ではないのだ。
昔、私が高校生だったころ、テレビで当時の東大の川田侃教授がPeace Research(平和学)なるものを説明されており、感動して先生に手紙を書き、英文の論文集を頂戴したことがあった。残念ながら、私自身は興味を持っただけで終わったし、川田先生も亡くなって久しいが、国際情勢が当時より良くなったとは言えないのだから、当時以上に国際平和を実現するために何が出来るかということを各国の学者だけでなく政治家や経済人も入って、真剣に議論し前に進むべきだと考える。このような行動の端緒を築くこともひょっとすると我が国の安全保障につながるかもしれない。
民進党の代表選があるようで、とあるテレビ番組で候補者が出てきて議論していたが、私には極めて違和感があった。民進党の代表が誰になるかなど、誰が関心があるだろう?関心があったとしても、党員以外は投票権はない。要はたった20万の党員のために、公共の電波が使われたわけで、これは一党一派に偏しないという放送法の趣旨に反し、違法なのではないか?民主党の時代から、常にこの政党だけが特別扱いをマスコミから受けているという印象すらある。是非この違法性はきちんと司法にて判断いただき、違法な行為であったとすれば厳しい対応をマスコミに対してしていただきたい。我が国の民主主義をもっとも阻害しているのは、仲良しクラブで自分たちの生存と利益だけを追求し、先に触れた安全保障一つとっても本質につながる議論を提示する知性のないマスコミなのだから。