何故こんな世の中なのか?
政府が、憲法9条は核兵器の保有を禁じているわけではない、との答弁を決定したようだ。これは、自衛のための必要最小限度の武器の保有は許されるという考え方の延長線上に立つものだが、原爆による敗戦を踏まえて作られた平和憲法の趣旨としておかしくないか?世界に対して核非武装を主張する国として、一貫性に欠けていないか?そもそも核が自衛のためという論理に飛躍はないか?
ISに魅力を感じてイラクやシリヤに渡ろうとするフランスの少女たちは強いものに魅せられているのではないかとの報道もあった。この背景に何があるのかは別にして、我が国でもISに参加しようとする若者は出てきているし、トランプ氏に対する肯定的な動きもあるようだ。
要は、現代の米国や我が国、或いは欧州の諸国において、社会の仕組みの基本である民主主義や資本主義が十分機能せず、過度の社会保障負担、貧富の差を含めた現状に対する様々な不満が蔓延してきている、ということではないのか?
アベノミクスは機能せず、経済の大幅な好転は見込めず、明らかに社会保障の負担はこれからも増加し続ける中で、誰一人これを解決する手段を提示し得ないのだから、国民の不安が高まるのは致し方ない。その淵源は、結局抜本的な改革を進めることが出来ない経済人、官僚、政治家のスタンスそのものであり、そして政治家についてはそれを選んできている国民に帰着する。
それにしても福岡県の消費期限真近の食品の困窮層への配布の試みに対する現場からの疑問の提示は理解に苦しむ。少なくとも消費期限内であるわけだし、社会全体として無駄を避けるために提供するのだから、子供たちにとってもプラスにこそなれ、マイナスはあるだろうか?
尊厳が大事だとする反対意見の考え方を理解しないわけではないが、それが差別につながると感じること自体が、ある意味で逆に被害者意識を醸成し、更に心理的分裂を生むのではないか?それなら一層のことコンビニで同種のものを全ての学校に配ったらどうか?
あまりに頑なな貧困者を守ろうとする態度が逆に差別に繋がることもありうる。お互いに助け合う世界では、あまりリジッドなことを言わず、おおらかに進めることが望ましいと考える。経済が益々厳しくなっていく中で、まずはお互いに共に生きる試みが大事なのであり、肩ひじを張ることではない。
一方で、核保有のようなことについては、おおらかさよりも明確な論理を求める。このあたりの使い分けがおかしくなってきていないか?