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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

人類の社会には対立の構図しかないのか?

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この世界は、対立の構図しかないのでは、と思ってしまう。トルコの撃墜しかり、維新の党しかり、沖縄の米軍基地の問題しかり、考えてみればCOP21も、パリのテロも全て同じだ。

20世紀が戦争の世紀と呼ばれ、国連の成立とその成長によって、平和な21世紀が生まれると思ったのは幻想。今や人類の歴史において最も紛争の多い世紀に我々は生きている。これは、どうすれば解決できるのだろうか?

もちろん私のような素人が考えて結論が出る話ではない。宗教、民族、経済、歴史、あらゆる、単純に解決のつかない遠因を抱えているのが現実の対立の構図だ。だが、それはそもそも人の感情の問題ではないか?そして、それは歴史と時代を経てより増幅されるのではないか?

と考えると、中学・高校の生物学の教師の言葉が蘇る。「生物学には分類学と生態学がある。分類学は違いを探るもの、生態学は機能としての同一性を探るものだ。」確かに、国ごと、民族ごと、宗教ごと、更には文化ごと、様々な違いがある。

そして、それをベースに彼我の差を理解し、それが当然と受け入れる幼少時がある。だが、本当に自分たちが自分たちの狭い世界で認識している世界、或いは他国というのは、認識通りなのか?もっと同じ感覚を持った人たちはいるのではないか?

そんな、生き物として当たり前の経験をさせることは出来ないか、それが私の原点だ。この間大学時代からの、ある意味いつまで経ってもお世話になっている偉い友人に、東京五輪で世界中の子供達を呼んで、一緒に世界最高水準のスポーツを見せて、同じように感動してもらって、それぞれの間の垣根を取り払うきっかけを作りたい、と提案した。

同友人からは、残念ながら積極的な賛同を得られなかった。五輪でそれをやってはいけない、と。その場はちょっと酒も入っていたので、あえてあまり確認しなかったが、おそらく五輪を政治利用するな、ということだったのだろうと思う。

だが、あえて言いたいのは、五輪自体がクーベルタン男爵の平和を求める心から来ているとすれば、このような考え方も当てはまるのではないか?深く考えれば考えるほど、歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的対立点が気になってくる。

だが、同じ生き物として美しい景色に感動し、同じ人類としてお互いに助け合い、最高のスポーツの祭典での人類の努力とその成果に感動し、そして同じ世代としての気持ちを共有する、そのようなことからしか人類社会の平和は生まれないのではないか?ともかくも、対立ありきではない、生態学的な社会の仕組みづくりを目指したい。

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