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40代で同人デビューしてしまった著者がその現場を体験しつつ腐女子を自認する立場で観察する幻の腐女子市場(マーケット)。はたしてそこに市場はあるのか、ないのか。デビューは10代が当たり前なコミケの現場などで突き当たる難問に頭を悩ませ、時に大失敗しつつの体験談を含めた、観察ブログ。

都青少年健全育成条例可決に思う〜2〜

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2010/11/22に提出された「都青少年健全育成条例改正案」の一部:

「刑罰法規に触れる、または婚姻を禁止されている

 近親者間における性交描写」の自主規制を求め、

「著しく社会規範に反する性交または性交類似行為を不当に賛美し、

 誇張するように描写した表現」のある出版物を

「不健全図書」として指定し、出版流通を規制する。

そしてなぜか、活字や実写をのぞき、漫画アニメに限り規制。




過激な性表現のあるものを「青少年」が簡単に手にとれないよう、

ゾーニングの必要性はもちろんあるし、

現状、ある程度書店でのゾーニングはされている。

業界の自主規制やすでにある言論統制については触れずに

何もかも野放しのような印象操作をして、

短期間で無理矢理法案を通そうという態度からは、

反対意見を聞く気がない、という意思が透けて見える。


12/6に行われた反対する集会で、

漫画家のとり・みき氏は

「表現というものはどんなものでも、ある一定の層を傷つけるものだ」

と言った。確かにそうだと思う。

「子供って本当に可愛い、宝物ですよね」

というセリフにも傷つく人はいるのである。

とり氏は続けて、

表現する者はそのことを覚悟しなくてはならないし、

また表現する自由を振りかざしてもいけない、という趣旨の発言をし、

その上で

「規制に賛成する側と反対する自分たちが共通言語を持たない現状は

 自分たちにも責任がある。きちんと話し合いたい」

と語った。



「千円札裁判」だな、と思った。

前衛芸術家の赤瀬川原平氏(今は芥川賞作家でもある)が、

千円札の精密な模写と、その印刷物(片面のみ)を使って「作品」を作り

1963年の読売アンデパンダン展に出品した。

その印刷した作品が通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴、裁判となった。

この裁判で争われたのは「赤瀬川の作品は芸術か犯罪か」ということだった。

「千円札の模型(by赤瀬川)」が芸術か否かを説明するために、

様々な証人が様々な芸術的証拠を裁判の場で披露した。

ぼろをつないでつくったヒモを裁判所内に張り巡らすもの、

芸術の一部である人体に夥しい数の洗濯バサミをはさむもの等々、

様々な芸術作品が陳列され、裁判所内は即席のインスタレーション空間となった。

今から思うと面白すぎる状況だが、

法曹界の人々と前衛芸術家は共通言語を持っていない。

証人たちの芸術作品はほとんど判決に影響せず、

赤瀬川は執行猶予付きの有罪になった。

その時「前衛芸術」は裁判官たちにとって

今の漫画アニメよりもずっと理解不能なものだったが、

それでも、

それは「裁判」だったからとことん争われることになったのである。


今回、都側は規制反対派と話し合う姿勢を見せなかった。

反対派もまるごと全部反対している訳ではない。

過激な性表現のある漫画を描いている作家だって、

それが意図しない読者層に届くのは不本意だと思っているのだから、

ゾーニングについては賛成なはずだ。

ただ、

性描写に限らず様々な反社会的とされる表現について

物語世界の中にさえ、明に暗に規制を求めることは

描き手(作家)と送り手(版元)を萎縮させる行為であり、

表現の自由に抵触するのではないか、

そういった表現者の危惧を取り除く隙も与えず、

この法案は一方にだけ都合のいいデータに基づいて可決された。

最大の問題点はその姿勢にある。


私たちは話し合う努力をしなくてはならない。

規制する側は、千円札裁判のような検証の場を提供するべきだ。

具体例をあげて「エロ漫画検証」を徹底的にやるべきだ。

今の漫画家や漫画アニメ愛好家は60年代の前衛芸術家よりは

規制する側との間に共通言語を模索できるはずだ。




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