1978年以来、31年ぶりの西東京大会決勝戦の再戦、日大二高OB vs 都立東大和OB(都東大和高校 佐藤道輔 元監督の追悼試合)
1978年(昭和53年)に開催された夏の甲子園「第60回全国高校野球選手権記念大会」の予選、西東京大会決勝戦で、両校は対決し、日大二 15-10 都東大和という激しい戦いを制して、13年ぶり3度目の甲子園を勝ち取りました。
歴史的に見ても、都立高校が決勝戦に進出したのは、9回度しかなく、優勝したのはわずかに1校(都立国立)です。
この第60回大会(1978年)での都立東大和高校の決勝進出は、第31回大会(1949年)以来となる実に29年ぶりのできごとだったのです。
※第56回大会(1974年/昭和50年)から、東東京と西東京で別れましたが、分かれてから最初に決勝進出した都立高校です。
この躍進を引っ張ったのが、当時の監督・佐藤道輔さん(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%81%93%E8%BC%94)であったとお聞きしています。
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◆佐藤道輔さんの著書「甲子園の心を求めて―高校野球の汗と涙とともに (1979年)」ほか
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E4%BD%90%E8%97%A4%20%E9%81%93%E8%BC%94
佐藤監督が、病気になられて、励ます会として、31年ぶりの野球対決をという事で、計画が進んでいたのですが、本年6月にご逝去されました。
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◆日大二高OB・川島敏男さん(我々のコーチでもありました)のブログ
・『佐藤道輔先生』
http://nichidai-niko89.no-blog.jp/6064/2009/06/post_4748.html
・『一番大切なもの』
http://nichidai-niko89.no-blog.jp/6064/2009/11/post_1776.html
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しかしながら、この31年ぶりの対決は、追悼ゲームとして着々と計画が進み、2009年10月25日(日)に、前日からのアメニモマケズの開催となりました。
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試合の3週間ほど前に、同期経由で1学年上のキャプテン・西澤さんから連絡を頂いており、同期の幹事的役割を担っている当方ですので広報したのですが、同期に参加可能なメンバーがおらず、6学年下の谷山キャプテンに連絡したものの、誰も来れず、結果1人だけの参加。
当日、10時集合ということで、若手(?)は、やはり1時間前にはグラウンド入りしなければと思い、10数年ぶりに日大二高立川グラウンドに到着すると、、、センター方向から見えるグラウンドには、既に人がいます。
◆雨が降り、ネット越しで、センター奥からなので、良く見えません。
◆日本大学第二高等学校 立川グラウンドという立派な看板が、、、いつの間に。
クラブハウスも、かなりきれいに建ってました。
早速、グランドに入ると、現役当時にコーチとして来て頂いた川島敏男さんが出迎えてくれました。続いて、同じくコーチとして来て頂いていた田村了さんも。
若手が誰か来ているのかと思っていたのですが、気合い入ってます。
(結果として、4学年上~6学年上+上野さん(元監督)だけでした。)
◆試合当日の川島コーチ
早速、ユニフォームに着替えて、お手伝いをと思ったのですが、相変わらず、グラウンドの整備状態は良くて、やることといえば、とりあえずの雨対策でビニールシートをマウンドとホームに掛けるぐらいです。
◆ホームからセンター方向
OBが、続々とグラウンドインしてきますが、知っている人が全然いないので、いる場所も無く、とりあえず、ライトのあたりまで散歩して、グラウンドコンディションの確認で、てくてくと。
◆ライトからホーム方向
グラウンド状態は、やわらかいのですが、昔から水はけが良いということで、何もすることがなく。
みなさん忙しそうで、話す人もおらず、居場所がないので、室内練習場に足を運ぶと、そこには、アームマシン(ストレートのバッティングマシン)、カーブマシンは既に無く、物置のような状態になっていて、ちょっと残念。(おそらく今は、雨天時のブルペンなのかなぁと。)
そうこうしているうちに、元監督の上野さんがグラウンドイン。即座に挨拶です(^^;
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◆試合に先立ち、集合です。
ゲーム主旨の説明、両チームの監督の紹介、日大二高の現監督・田中さんの紹介などの後、都立東大和高校・元監督 佐藤さまのご冥福をお祈りするために、黙とうしました。
◆試合前の集合写真(まだ、みなさん元気です。私も、後方右側に紛れています)
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試合開始です。
私は、SBO(ストライク・ボール・アウト)のカウント電光掲示板担当で、バックネット裏のブースに入って試合観戦です。
雨でなければ9回x2試合の予定だったので、2試合目の助っ人ということでお邪魔したのですが、1試合のみということで、裏方に徹することがマイミッションです。
ミッション外ですが、スコア用紙があったので、SBOカウントと同時に、どたばたとスコアも、ざっくりですが付けました。
◆スコアデータ
nichidai2-tohigashiyamato_score_20091025.pdfをダウンロード
※抜け漏れ・誤記があるかと思います。 修正依頼をお待ちしています。
さてゲームの方は、31年前の現役が集まったとは思えない動き、気合いを感じました。
◆この日、日大二高OBチームで最も活躍した1番レフト郷さん
見るからに現役選手のような姿が素晴らしい。右側は、私の代のコーチをしてくれた田村了(さとる)さん=相変わらずクール=カッコいい感じです。
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初回は、日大二高OBチームが4安打で2点のリードを奪ったものの、一進一退のゲーム。
8回を終えて3-3の同点です。
そして9回1アウトからの5連打を浴び、3失点で3-6。
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◆センターにあるスコアボード
9回裏、「代打、かたばみクン、かたばみクン」
この日は、マネージャのOGも来られていたので、ウグイス嬢のアナウンスありでした。
まずい。この緊迫した場面での代打。
アナウンスは気分いいなぁーと思ったものの・・・
初球 :ストレートをファウル
二球目:カーブ(インコース真ん中)をあえなく見逃し
三球目:カーブ(アウトコースのボール球)をチップしたもののキャッチャーミットへ。
はい、三球三振です。 私らしい。
上野監督からは、「変化球ばっかりだたからねぇ」と、なぐさめのお言葉。
現役時代、変化球が苦手だったことを覚えていてくれたのか?(笑
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余談ですが、現役当時、2軍のクリーンナップから1軍に上がることを決めた国学院久我山との練習試合では、カーブをライトオーバーのエンタイトルツーベースで、ストレートを左中間にツーベースでサヨナラヒットだったことは、一生忘れません。現役最後のヒットだったのです。
翌日から、1軍のみの静岡遠征に合流させてもらうことになり、日大三島高校での2試合目・1打席目でサードゴロ。 ファーストベースにスパイクの歯がひっかかり、骨折→引退。
(気合いを入れて、スパイクの歯を交換したのが、全くの裏目でした。。。)
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その後、郷さんが、この日3本目のヒットを放つも無得点。
3-6で、31年前の雪辱をされてしまった結果です。
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そんな、31年ぶりの対決でしたが、バックネット裏的なコメントとして(大先輩に対しての評論はできないので。。。)
・都立東大和OBチームは、1番~5番が2安打以上で(選手交代もありましたが)、特に1番バッター須藤さんは3塁打2本を含む4安打という驚異的な数字。
近代野球での1番バッター重要性を象徴しているかのようで、7回(3連打・1失点)・9回(5連打・3失点)の集中打の最初のヒットを須藤さんが放っています。(チーム合計14安打)
・日大二高OBチームのマルチヒットは、1番の郷さんの3安打1四球と7番の小泉さんが2安打で、特に下位打線は、小泉さん以外で1安打という結果。(チーム合計9安打)
・投手力を見ると、日大二高は、バッティングセンターで練習するレベルのスピードボールを投じていたことが、相手の打線につかまった要因と思われます。
・日大二高OB打線は、かなりスイングも切れており、逆に、スピードは無くとも変化球を含むコントロールにより、凡打に終わるようなピッチングをされたのかと思います。
●バックネット裏の余談
ネット裏に代打するまで、ずっといましたが、審判とバックネットの間に、練習用のネットが集まっており、ちゃんと見えなくて苦労しました。
現役から今まで、一度もネット裏のブースに入った事が無かったのですが、ここからは、全てが見渡せるベストビューポジションでした。
11月7日は、1学年上の代が、小金井工業高校OBとの対決で、こちらも、頭数要員としてお邪魔する予定です。
この試合は、同期の3番バッターと、当社の元社員で甲子園経験者を連れていく予定なので、出番も無いのでスコアブックに集中したいと思います。
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【本ブログ関連情報】
◆第60回全国高校野球選手権記念大会の甲子園出場時のメンバー
監督:高本 晴夫
部長:美濃部 良介
背番号 選手名
1 小林 義智
2 万里崎 達弘
3 菊池 章夫
4 上原 俊一
5 古谷 肇
6 牧野 孝則
7 郷 良則
8 小林 秀人
9 並木 保彦
10 小泉 洋和
11 二瓶 満裕
12 高尾 宏一
13 川島 敏男
14 高沼 芳雄
15 井口 幸爾
◆日大二高の夏の予選ベスト4は過去17回
http://www.tokyo-hbf.com/rekidai_sensyuken_to.html
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◆もっとも余談なおはなし
東京の代表高が1校しかない時代の第53回大会の決勝戦で、私の叔父である方波見誠司が、二松学舎大付属高校(青木監督の率いる強いチームで、後に、私の1学年上の代から日大三高の監督になり、自分の代も含め対決しました。)にて、決勝戦の1番センターで活躍していたのを球場で見て、ラジオからも聞こえてきて、「野球をやるぞ!」と心に誓ったという、わずか6歳の時の思い出です。
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