DTP実践誌「MAICO.4」 - 「大震災に震えた日」。
今日の関西電力のテレビCMは、阪神大震災復興15年バージョンだった。そうか、あれから15年が経つのか。当時のオレは大学1回生。後期試験の直前で、4時半ぐらいまで試験勉強していた。それから1時間後、地鳴りの音で目が覚めたのを覚えている。
パソコン通信時代の「ニフティサーブ」に「文字情報と印刷・DTP フォーラム(FPRINT)」というフォーラムがあった。そのFPRINTで、当時まだ珍しかったDTPを使って実際に本を作ってみようって話になってオレも寄稿した。タイトルは「大震災に震えた日」。DTP実践誌「MAICO.4」は1995年7月に発行された。
今日はこの時書いた記事に後に一部加筆したものを再掲載したいと思う。15年前のオレが15年前のあの日をどう思っていたか。何分、若い時に書いた文章なので、短絡的な部分がある点はご容赦いただきたい。
大震災に震えた日
1995年1月17日午前5時46分。
その日の朝、俺は重い地鳴りの音で目が覚めた。神戸市西区伊川谷、明石海峡を望む高台に建つ俺の寮は、淡路島と明石大橋を一望出来ることが売り文句だ。その音は、地面の下からというよりも、どこか上空の高い所から響いてきたように思えた。直後、強い縦揺れと同時に、俺は、窓の外が青く光るのを見た。
その日、俺は4時半頃まで起きていた。別にニフティの割引時間帯を待って通信していたわけでもなけりゃ、ファミコンに熱中していたわけでもない。1月と言えば、大学生は後期試験のまさに直前。この時期ばかりはさすがの俺も大学生に戻らねえとヤバいわけで、ダチからふんだくった大量のコピーを前に、六法を開いて勉強していた。
人間ってのは不思議なもんで、理解できないシチュエーションにいきなり叩き落とされると、これが意外と冷静に振る舞える。“そりゃ、てめえ、寝ぼけていたんだよ”ってウワサもないわけじゃないが、震度6 の揺れの中、俺はただただ天井を見つめながら、“コイツが落ちてこねえ限り大丈夫だろう”なんて思いながら、ベットにしがみついていた。と言うのも、うちの寮はまだ建ってそんなに年月も経っていない鉄筋コンクリート2階建て。この寮が潰れるぐらいなら、もっとボロい木造の寮に住んでるダチもダメだろうから、“なら、あの世行っても賑やかでいいや”なんて楽天的なことも考えたりもした。寝ぼけてなかったとしたら、ひょっとして俺ってすんごく肝の据わったヤツなのかも知れない。
揺れが収まると同時に、寮の中が騒がしくなった。方々から先輩の声が聞こえてくる。言うまでもなく、部屋ん中は停電。非常灯の青い明かりが、玄関の場所を薄く照らしていた。ガス漏れを心配して、とりあえずみんなで外に避難する。ドアを開けると、外にゃ雪がぱらついていた。その日の朝も寒かった。
先輩の車のカーラジオをNHK に合わせる。“今日、午前5時46分頃、兵庫県南部地方を中心に、強い地震がありました。震源地は淡路島沖、各地の震度は、神戸、震度6……”緊張したアナウンサーの声。みんな、一斉に窓の外の淡路島を見る。まさか、目の前が震源だとは誰も思わなかった。しばらくは車のエアコンで暖を取った。
日が昇ると同時に、寮に戻る。そん時になって、俺も初めて部屋の惨状を把握した。実は、俺が寝てたのはロフト・ベット。部屋の一番高いところで寝てたおかげで俺の体の上に物が落ちてくることはなかったが、改めて部屋を眺め見ると、無事なのは俺が寝ていたベッドぐらいで、全ての棚が倒れ全ての物が散乱していた。電子レンジ、テレビにビデオ。冷蔵庫は無事だったけど、ドアが開いて中身が散乱していた。電気ポットは変形して中身を床にぶち捲き、倒れた醤油の瓶は、カーペットに香ばしいシミを付けてくれていた。
とにかく電気が止まっているんで、テレビが付かない。もちろん水道も断水。多機能電話も電気がなけりゃ使えない。と、悪態をついていると、いきなり電話のベルが鳴った。不思議に思って受話器を取ると、実家からのおふくろの声。とりあえず状況だけを報告する。電話って、かかってくる分にゃ電気は必要ねえのかと、変なところで感心した。
テレビが付かない為に、誰1人として被害のデカさを把握できているヤツはいなかった。大学が燃えた(薬学部の校舎でボヤが出たらしい)と聞いて、みんなで“今日は休講かな”と喜んだ。伊川谷で新幹線の高架が落ちたと聞いて、ダチは早速バイクで繰り出して行った。
俺も自分の部屋の片づけを終えてから、ダチの寮を訪ねることにした。地面に走る地割れ、至る所で倒れているブロック塀。壁が崩れ落ち、玄関もひしゃげた家。こん時になって初めて、“ひょっとして、スゴいことになってるんじゃねえか”と嫌な予感が脳裏を過ぎった。高台から淡路島を望んでみる。霧がかかっているのか、淡路島~三宮はぼんやりとしか見えなかった。ただ、その霧は黒かった。
電気が回復したのは、その日の午前11時頃。もちろん俺は、早速テレビを付けた。その日、俺が初めて目にした映像、それはブラウン管の中で、阪神高速神戸線、何度も走ったことのあるその高速道路が、横倒しになっている姿だった。失うという恐怖を感じたことがあるのだろうか。
高校時代を含めて2年間、三宮の予備校に通った。三宮のセンター街には、俺がバイトでBBS のSYSOP をやっているゲームショップがある。大学も神戸にある。つまり神戸にゃたくさん友人がいる。ついその前々日も、三宮の居酒屋で連中と騒いだ。いい酒を飲んだ。
恐怖、と形容していいのだろうか。“ダチを失ったかも知れない”という恐さを、俺は唐突に背負った。思えば幸運にも、俺は今までダチの葬式に出ると言った経験をしていない。だからって訳じゃないんだが、俺が生きてる限り、ダチもみんな生きている、そんな勝手な思い込みを持っていた。俺が死ぬことなんてこと考えたこともなけりゃ、ダチが死ぬなんてことだって考えたことない。いや、俺だけじゃない、誰だってそんなもんじゃねえか。
3日後、恥ずかしい話だが、初めて須磨区高倉台に住む友人に電話が通じた時は、さすがの俺も泣きそうになった。そいつから、他の仲間の無事も聞いた。久しぶりに冗談を言い合った。笑った。安心した。
電話は1日で回復した。深夜を見計らってニフティにアクセスする。メールボックスはほとんど満杯の状態だった。フォーラムで知り合った人たちからのメールが大半だったが、バイトのBBSの会員からのメールも多かった。それもそのハズ、センター街はもちろん停電中で、ホストも稼働していない。他の会員やお店の常連さんの安否情報など、入ってくる情報を整理して返信する。阪神間のアクセスポイントはほぼ壊滅状態だったが、地方のAPを経由すればニフティにはアクセス出来る。本来なら無事を確認しあえない仲間とも、連絡を取り合うことが可能だ。この時ほど、ニフティがありがたく思えたことはなかった。その頃にゃ、いくつかのフォーラムで、震災関連の会議室も開かれていた。俺も全国BBS 運営者フォーラム(FBBSS)にアクセスし、BBSの状況とSYSOP の無事を報告した。マスコミは被災者の為になったのだろうか。
情報の流れてこない不便さを、今回は俺も体感した。テレビを見るまで、地震の全貌を掴み取ることは出来なかった。マスコミの流すヘリコプターからの映像を見て、初めて三宮の惨状を知ることが出来た。情報は重要だ。マスコミは己の責務を果たした。……ホントにそうか?
その日、三宮上空には、各社のヘリが飛び交った。同じ映像を取るために、各社がそれぞれのヘリコプターを飛ばした。その轟音は、瓦礫の下から助けを叫ぶ、その弱々しい被災者の声をかき消しやしなかったか。被災者救護に支障は来さなかったのだろうか。
誰が撮っても、三宮の映像は同じじゃねえか。どこか1社がヘリコプターを飛ばして、その映像を各社が共有すれば、ヘリコプターの轟音による人命救助の妨害は最低限に押さえられたハズだ。
瓦礫の中から被災者を助け出すシーンをテレビで見た。その模様を写すカメラマンと、その模様を伝えるレポーター。彼らはなぜ、自ら動こうとしなかったのだろう。被災者救護よりも報道の方が大切なのだろうか。実際にあの場にいて、それでも体の動かなかったレポーターに、オレは人間性を感じることが出来ない。
最新情報を配信することは確かに大切だ。それは俺も認めるし、俺も体感した。特にこれだけのデカい震災の場合、正しい情報を正しく被災者に伝えるのは、重要な使命だと思う。だけど、報道が人命よりも価値のあるものだとは思わない。一線を踏み越えちまった時点で、悲しくもそこから先は、震災で荒稼ぎしている連中と何ら変わりがなくなっちまう。三宮上空の多数のヘリは、ホントに必要情報を全国に報道する姿だったんだろうか。単なる視聴率競争に落ちぶれちまっていたとは言えないだろうか。“他社に遅れを取るな、どんどん映像をこっちに回せ”
2日で、マスコミの報道が鼻につき始めた、瓦礫の上を無神経に歩く特派員。その下には、ひょっとしたらまだ被災者の遺骨が、そうでなくても大切な品々が眠っているのかも知れない。避難所の中継で、炊き出しのとん汁を食ってる特派員もいた。勧められたのかも知れないが、料理番組じゃないんだから、そこは断るべきじゃないだろうか。被災者見学に訪れる連中に対して、そういう人間的に恥ずかしい行動は慎むようにとコメントした放送局もあった。倒壊した家屋にファインダーを向ける連中を、有名な在阪の映画評論家は激しく非難した。マスコミと被災地見学にやって来る連中。いったいどこにどんな違いがあると言うのだろう。使命がどうのこうのって言う建前や言い訳は置いといて、やってることはどっちも同じじゃねえか。少なくとも、俺にゃそう見える。
ますます俺はマスコミが嫌いになった。軽蔑した。商売人に励まされはしなかったか。
地震後1ヶ月程して、俺は震災復興のバイトに通い始めた。三宮に数店舗を持つ大手のスーパー系建設会社のバイトで、仕事はグループ店舗の復旧作業。初日、高々と積み上げられた瓦礫の山を見て、三宮を襲った衝撃が伊川谷のそれとは比べモノにならねえ程すさまじいものだったことを実感した。
今回の震災では、政府の対応の遅さが指摘されているが、この地震から学ぶことは多いと思う。政府はそれこそ大きな力を持っているけど、そんかし、実行までの手続きがややこしい。かと言って、これら手続きの全てが不要というわけでもない。非常に強大な力を安易に利用出来ないようにする為の足枷は、俺は必要悪だと思う。ただ、危機管理体制を確立していなかったが故のロス・タイムを、ここで否定することは出来ない。アメリカのように、災害状況を早急に把握し、すばやくこの足枷を取り外す手続きに移ることが出来る機関は、絶対に必要だと思う。
それに対して、民間機関の対応は素早かった。例を挙げりゃニフティだって含まれるんだろうけど、民間の力にゃ限界があっても、即戦力には充分成り得る。俺がバイトに入ったスーパーも、即、三宮駅前の系列デパートの中に系列のディスカウント・スーパーを移転させてきて、生活物資の販売を開始した。数多くあった神戸の店舗ビルは解体を余儀なくされたが、使用していなかった昔の店舗を改装して、再びスーパーとして開店もさせた。三宮の人たちにとって、生鮮食料品を購入出来るスーパーがいち早く再開したことは、どんなに励みになったことだろうか。一時は、コンビニから商品が消える程のパニックも発生したぐらいだ。
三宮・元町の商店街もしかり。“負けてたまるか! 大震災”の垂れ幕を掲げて、営業を再開した店も多かった。元町の中華街・南京町では、1月31日の新節祭を変更して、訪れた人たちにそばを無料で配っていた。俺も当日、南京町を歩いてみたが、店の人たちの“食べていってや”の明るい声に励まされた人も少なくはないと思う。
そして、未だ街灯がほどんど回復していない三宮を望む高層ホテルの窓には“Fight”の文字が美しく灯った。2月末のことだったと思う。神戸を訪れることは悪いことなのだろうか。
三宮の駅前には、“がんばってるから、見学来るな!”の貼り紙が、至る所に貼られていた。確かに地震後、カメラを持った見学者をよく見掛ける。俺も、傾いたビルにファインダーを向けながら、“いっそのこと倒れてくれねえかな”なんてセリフを吐いてるヤツを見た時ゃ、後頭部に蹴りを叩き込んでやろうかと思った。
ただ、見学と言っても、いろいろあるんじゃないだろうか。旅行にしても、観光旅行もありゃ修学旅行だってある。俺は多くの人に、今の神戸を訪れて欲しいと思う。そして、ここで何が起こったのか、その恐怖を感じ取ってもらいたい。
俺が初めて三宮に入った時、そのまるで映画のセットのような壮絶な姿に、すっかり言葉を失った。別にここで、コラムニストのようにカッコのいいセリフを吐くつもりはないんだが、とにかく“自然の力ってスゲえ”と思った。どんなに俺たちが硬く丈夫なビルを建てたとしても、そんなもん、まるで小枝を折るかのようにぶっ壊しちまう。山を削り、海を埋め立ててきた神戸の街。なんだか“俺たちをナメんなよ”と仕返しを食らった感じがした。
人間の常識なんてもんは、所詮、思い込みでしかない。宇宙ってのはこんなもんで、地球ってのはこんなもんで、太陽ってのはこんなもんだってのも、結局は自分で思い込んでるだけじゃねえか。ひょっとしたら、全然違うモノなのかも知れない。地球だって、ホントは平らで象さんが支えてくれてるのかも知れないじゃないか。なら、石ってのは硬いもんで、壁ってのはそう簡単に壊れるもんじゃなくて、まして太い鉄骨で組まれた近代ビルなんて、それはそれは頑丈で丈夫なんだってのも、俺たちの思い込みでしかないわけだ。そんな俺の常識を、三宮の惨状を見た瞬間、根底から叩き壊されたような気がした。何だか変な気分だった。
俺は多くの人に、今の神戸を見て欲しいと思う。そして、いろんなことを感じ取って欲しい。どんなことでもいい。“スゴい”って感想だけでもいいじゃねえか。俺たちが考えてたよりも、自然の力はもっともっと“スゴい”もんなんだ。
ただ、記念撮影はいただけない。今、キミがファインダーを向けてる瓦礫の下で、ひょっとしたら誰かが苦しみ死んでいったのかも知れない。そして、今の神戸は被災地であって観光地じゃない。だから、俺たちも観光客じゃないハズだ。
そう言や以前、東京の人に、“神戸のことを聞かせてくれ”と言われたことがあった。当の本人は、興味本位で聞いたと思われちゃ困るとでも思ったのか、言った後で“気に障るようだったら別にいいんだけど”と断ってきたんだが、俺は別に何とも思わない。地震のことを聞かせてくれって言われりゃ、俺は自分の言葉で自分の体験したことをそのまま話してやってもいい。ただ、そんな俺の話を聞いてくだらないサ店のダベり話程度にしか思わねえか、今すぐスーパーに走ってL 字金具を買ってくるかは、聞いた人次第だと思う。[了]
神戸のメリケンパークには、当時の状況をそのまま保存した「神戸港震災メモリアルパーク」がある。JR元町駅から歩いて20分ぐらいだろうか。神戸を訪れた際は、是非立ち寄ってみて欲しい。