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仕事に絡んだ四方山話などを徒然にと思いつつも、読んで興味深かった本ネタが多くなりそうでもあります。

【ブックトーク】フィンランド・メソッドなるモノ / 『フィンランドは教師の育て方がすごい』

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 ちょっと前に、職場で「最近はフィンランドの教育が熱い!」なんて話題が上がって、ふと思い出しのが、こちら。2009年の本ですが、私が手に取ったのは2012年から13年にかけてくらい、最初は図書館での出会いでした。

 『フィンランドは教師の育て方がすごい』

 ちょうど通信課程で大学に行っていた時期で、「生涯学習」や「教育」というキーワードにアンテナを伸ばし始めてもいました。フィンランドの教育事情についての考察がまとめられているのですが、時期的には第二次世界大戦後からの経緯が綴られていて、社会民主主義の視座も含めて非常に興味深く読めました。で、手元にも置いておこうと購入し、たまにパラパラとめくっています。

 フィンランドと日本の「教職(教師)」の最大の違いは、少なくとも戦後の日本社会においては「専門職」として位置づけられているかどうか、との点と感じました。

 なお、フィンランドで教師になるには学士では不十分で、修士以上が条件となります。そして「教師は自己評価して日々研修に努める専門家」として、着任後も不断の研究に従事することが求められます(私も高校の教職免状や司書教諭は持っていますが、耳に痛いです...orz)。

 “知識は常に更新される、このことがヨーロッパの教育のもう一つのキーワードだ”

 教育に対して「学問」として向かい合っているからこその、言葉でしょう。これを踏まえて「フィンランドの教育学は机上の空論から脱する仕組みを作っている」との流れを見ると、それだけでフィンランドの教師の質の高さが伺えます。少なくとも日本のような「労働従事者」ではないなぁ、とも。

 “子どもは自ら学ぶ存在で、教師はそれを支援する専門家”

 これは「学習」の本質を突いた言葉だと思います。そしてそれを文字通りに“教え育んでいく”のが「教育」なのではないでしょうか。そういった意味で、本来教職とは「専門家」であるべきで、少なくとも時間に縛られる労働従事者では不十分なのだろうと、そうも思います。その高い意識を持ってして初めて「人を教え育む」という行為に携わる資格を得られるのではないでしょうか。

 さて、そんな意識に支えられた「教育の成果」を測る指針の一つとして、経済開発協力機構(OECD)が行っている“PISA調査”という学力調査があります。昨今の日本は下がる一方ですが、一つ意外だったのがそのOECDにおいては「ゆとり教育」の理念が評価されていた点です。

 それでは何故日本の「ゆとり教育」は失敗したのでしょうか。本来であれば、教職が専門職として昇華されていく流れのきっかけになったであろうにもかかわらず、、理念を持たない“ただの労働作業”へと堕してしまったのには、どういった理由が見いだせるのでしょうか。

 理念を実践していく現場の教師に受け止める余裕がない、というのはあるでしょう。でもそれ以上に「日本教職員組合(日教組)」に代表される労働組合が主導するサポタージュで骨抜きにされてしまっていた点も無視できないと、そう思います。

 「教師」が専門職としての待遇や社会的地位にはないといった言い分もあるでしょうが、授業までもをおざなりにして政治デモに参加するなど、そもそもの「教育者」としての意識が無いのでは?との事例があまりに多すぎます。本来、自己研鑽に充てるべき時間のみでは飽き足らず、「教育」の本分である授業までも放り出して政治活動に従事することを是とする、、そんな風潮には今更ながらに怒りしか残りません。

 個人的には「学習することを学ぶこと、および他者を支援することが、要求される」との理念がまっとうに適用されることを期待します。そうすれば、ちょっと前に問題となった、大津でのいじめ(というか暴行殺人)問題や、大阪での体罰(というか暴力)問題などと同じような事案への抑止効果も出てくると思いますから。

 “平等は、誰にも同じものを提供することではなく、
  誰もが自分の才能に合った教育を入手する権利である”

 これは結果の平等ではなく、機会の均等こそが自然でかつ公正な「教育の理念」であるべきとの、非常に分かりやすく、納得のいく内容です。

 “(日教組に代表される)革新系の教育関係者は、
  学習の機会均等だけではなく、結果も平等であるべきだと考える”

 画一的な「平等な結果」だけを追い求めるのであれば、その意図した「結果」通りに子供が動くように強制的に捻じ曲げてしまえばいいでしょう、、非常に恐ろしい考え方だと思います。人の個性を、多様性を、考えていくという本質的な活動を、すべからく否定しているような、なんて風に見えてしまいます。

 しかしそうではないでしょう。子ども一人一人の個性を大事にしながら、決して画一的な手法ではなく、各々の個性にあったやり方で「子どもが自分なりの学ぶ姿勢を見つけて作る」のを支援していくのが、本来の在り様だと思います。また日本では失敗してしまった「ゆとり教育」の本分も、その点にこそあったのではないかな、とも。

 教師はあくまで伴走者であって、主役は子供です。その子供が「自身の力で考え、価値観を構築し、他者との関係性を模索していくための社会性を身につけていく」のが、「教育」の本分ではないかとも。少なくとも「自分がこの授業に参加していたのだ」という存在感も感じることができれば、そう変な方向に進むことはないとも感じています。

 日本とフィンランドでは、教育界の在り様も事情も異なるのでそのまま全てを移植できるわけでもないでしょうが、成人以降の「生涯学習」との理念とも合致して、相乗効果的に「人間形成」が継続されていく事になるのかな、なんてことを考えさせながら、興味深く読めました。

 “私たちは、「未来の学力」を子どもたちに用意しなくてはならない”

 この責任の重さを実感している“教師”の方はどの位いらっしゃるのだろうか。もちろん教師に限ったことではなく、子供を“教育”する立場である人であれば、すべからく必要な視座なのだと思いますが、、精進していかないとなぁ、、なんて風に実感させられた一冊です。

【あわせて読んでみたい、かもな一冊。】
 『読書教育』(辻由美/みすず書房)
 『中山成彬はなぜ日教組と戦うのか』(伊藤玲子/ベストセラーズ)
 『いま日本人に読ませたい「戦前の教科書」』(日下公人/祥伝社)
 『だから、僕は学校へ行く!』(乙武洋匡/講談社文庫)
 『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』(中西輝政/PHP新書)

【補足】
 ちなみに私が教職を学習していた時代(1990年代後半)、どうすれば授業に集中させられるかといた、単なる詰め込みではない手法の検証がなされていました。同時に、当時実施直前であった「ゆとり教育」への警鐘もされていて、このままではまずいのではないかとの話をしたのを覚えています、、閑話休題。

 では、具体的にどうすれば、、言葉は悪いですが、現場での試行錯誤を重ねて、効果的にPDCAを回していくしかないと思います。そういった意味では、現場で教育に従事する「教師」に権限をもっと持たせるべきでしょう。もっとも「自由であるからこそ責任が自覚される」となり、評価基準も明確にした上になるでしょうが。

 こんな中、一つ興味深い試みと感じているのが、母校でもある東洋大学で実施されている「往還型教育実習」との教育学のカリキュラム。2009年度開始らしく、このカリキュラムを受けた「教師」の方々も、今春から実社会に出ているのかな、、是非、成果を見てみたいところです。

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