ネット選挙解禁されてみて「自由と平等」について考えた
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今、まさに真っ只中だ。
すなわち参議院選挙のこと。
今回の選挙は「ネット選挙解禁」のスローガンの下にTwitterやらFACEBOOKやらメルマガやら、いわゆる電子媒体、ツールを活用した選挙活動が許される日本で初めての試みがされることで注目を浴びている。
若い世代が慣れ親しんだツールを活用して、若年層の投票率があがることを期待した施策だというのがもっぱらの世間の論調・・・。
でもね、僕はこれ、投票率は上がらないと思う。
何故なら、選挙という制度の理念と、SNSなどの「ネット」とスコープされているものの本質的価値やユーザーの動作はあまりにも乖離していると考えるからだ。
というのも、選挙制度。これは「法の下に平等」に与えられた国民の権利だ。だから、貧富・男女・思想・信条のわけ隔てなく選挙に参加する権利を有している。
いーじゃん、平等。ビバ!平等!イエー・ヨー!
当然この平等という概念は、選ぶ側はもとより、選ばれる側だって平等であって、それは公職選挙法という法律で定義されている。
- 選挙ポスターの枚数
- ポスターの大きさ
- 顔写真の大きさ
- 政党ポスターの枚数
- ビラの枚数
- 選挙活動期間
- TVなんかでは、いずれの候補者(政党)に偏らずに割り当てられる放映時間
これらは、全ての候補者を平等に取り扱うために、全て決められている。金持ちだからってでっかい顔写真入りのポスターで街を埋め尽くすことは許されない。全ての候補者は平等に扱われるから。
よく街に地元議員の顔写真と共に「弁士!○○大臣」なんて2人の顔が並ぶ張り紙を見かけるけれど、あれも「一人で顔が写る」張り紙・ポスターの類に枚数制限があるから、あんな形をとっているのだ。
ここで改めて、「ネット選挙」といわれてスコープされている、SNS等のそれを比べてみる。すると、既存の選挙活動には「自由」がないことに気がつく。そう、「平等」と「自由」は実は相反関係に近しい意味合いのものなのだ。
「平等」というのものは「法の下に平等」という言葉が表すように、何らかの秩序、ルールの下に区別無く与えられている権利のことだ。
一方でSNSなどの「ネット」の世界では、発言の回数に制限は無く、情報は無限にシェアされて、あるいはフォワードされて拡散していくツールだ。その気になれば、自分の顔をどれだけばら撒いても構わない。未成年だって世情に関して意見が言える。そこにあるのは「自由」だ。
今の「ネット選挙」では、電子情報を印刷して配布することは違法だ。また、未成年が選挙に関するリツィートも禁止されている。
はっきり言って、これを抑止することは不可能だろう。
とは言え、「自由」なネット選挙活動を本当に解禁するとすれば、無秩序な状況が引き起こされるのは容易に想像できる。
いずれにしても、今の制度では何のために「ネット選挙解禁」を掲げたのか意味が分からない。自由と平等、どちらに重心を置くか、という意図を明確にするだけでも、制度の向かう方向性が見えてくるのに。
曖昧なスローガンだけでは、決して投票率は上がらないし、政治への関心が高まるとは思えないのだ。
<了>
-正林 俊介-
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