【ゲーム「ガンロワ」やりまくって改めて「コンプガチャ」とバベルの塔の逸話に想いを馳せる】
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皆様こんにちは。鈴与シンワート株式会社の正林です。
「ガンロワ」ってご存知ですか?正式には「ガンダム・ロワイヤル」という携帯ゲームのひとつな訳ですが自分は今、退屈をもてあましているのでこの「ガンロワ」やりまくりな訳です。
ゲームの内容は「ガンダム」のキャラクターを所有して、様々なイベントを踏破していくもの。
自分の持っているキャラクターを強化したり、レアなカードを収集したりしてゲームを進めていくのである。
で、これ僕は遊んでいるのではなく、以前問題になった「コンプガチャ問題」などに実体験を通じてユーザー心理やゲームの今後などを鋭く考察するために行っているわけであって
● 決して、遊んでいるわけでは無いのである
というわけで、もう落ちつきを見せたようにも思えるモバイルゲーム界に起こった「コンプガチャ問題」。
業界は歩調を合わせて「コンプガチャ」の廃止を明言し、いまやその手のゲームは見当たらない、というのが現在のところ。
コンプガチャについては明らかな「絵合わせ」行為であり、消費者庁の指導も妥当だっと思うよ、僕は僕ちゃんは。まぁちょっと、遅いという感は否めないけど。
だけどこれ、「絵合わせ」が無くなっただけでいたるところに射幸心を扇情するファクターが無くなった訳ではなく、意図したかどうかはここで語ることはしないけれど、随所に巧妙に潜んでいて根本的解決とまでいたっていない、ってのが実情。
ゲームに登場する「敵」を倒してポイントが付与される。これがある一定レベルに達するとレアなアイテムが入手できるという仕様。ゲームならよくあるものだし、こういうものがゲームの面白みなわけだけど、これに「課金」というものが関わってくるからややこしい。
ゲームにメリハリや遊戯性を高めるために、あるときは賽の目を使い、あるときはルーレットを用い様々工夫がされているわけです。これは程度の差こそあれ「射幸性」を有していて、その偶発性があるがゆえにゲームというはオモシレイ、訳なんだけどね。
レアアイテムを手に入れるためには、課金アイテムなんかを使わないと到底、手に入れることは「ムツカシイ」のである。
自分もこれ、遊びでないからして問題を掘り下げるべく課金する、課金する課金する。
んふふ。オモシレイね。ガンロワ。
すっかり虜である。
で、そもそも射幸性を有さないゲームというのは、将棋、チェス、囲碁などかなり限定されてくるし、これらは「競技」といえるほどのもので、単純にゲームと定義するのも違和感があるんスよね。
そして、これがどうして、「バイブル(聖書)」にあるバベルの塔の逸話に続くかというと。。
バベルの塔とは、
もともとひとつの言葉をもっていた人間が神の住まいたる天に届かんとする塔を作っていたところ、神様がそれを「気にイラネー」って、人々に異なる言葉を話させて、なにやら話が通じなってうまく工事が進捗しなくなったので塔は完成しなかったのでした。
めでたしめでたし。
って、ものすごく乱暴に書きましたがこんな話である。
ふりかえって、「コンプガチャ」(或いはそこに現存する本質的問題)について、今回日本の企業に寄って提供されるサービスであったから、当局は指導が出来たわけです。じゃあこれ、AppleがFacebookがgoogleが提供するサービスであったらどうであろう。
● どのような指導、規制をかけるのだろう?
● そもそも規制をかけられるのか?
と思ったわけです。
共通の言語を失って、一度ばらばらになった人間がインターネットを通じてまたひとつになろうとしている。
地を這うアメーバのようなつながりであるインターネット。もし、神サマがいるとして、天に届く塔で無いから何も問題ないことなのだろうか?
様々な道徳観や文化を有する各国があって、それらインターネットから提供される情報、コンテンツ、サービスは「アラブの春」を引き起こしたような、有益なプラットフォームであると断言できるのるのか?
ガバナンスが強固である中国などは、批判されがちであるけれど、本当に批判に値することなのか?
バベルの塔はかつて神サマによって洪水を引き起こされ、それを箱舟に乗せて人々を救ったノアの子孫が引き起こしたもの。箱舟をもってしても救えなかった者たちへの想いから神サマの行為を憤怒して、塔を建設することになった。
今の、インターネットによる繋がりにそんな大義があるのだろうか?
うーん、そんな「大義」なんて考えるのは大儀なことよ。なんて。
ムツカシイ。わからねー、って。さ、今日もガンロワやろっ!
もうすぐ「部隊戦」!僕は隊長ゆえにいろんな人たちをまとめてゲームを進めていかなきゃ!
あー忙しい、忙しい!
<了>
-正林 俊介-
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