古い家
私が米国で育った家は100年以上も前に建てられた古い木造の田舎の家だった。引越した時にはもう周りは住宅街になっていたが、近所に一番古い家だったと思う。2回建てで、張り出し玄関があり、庭には古い木が多かった。
表玄関から入ると居間があり、それにダイニングが隣接して、一番奥に台所があった。寝室がある2階への階段は居間にあった。最近の日本の家の設計では、顧客がいるときに寝室に上がれないと言って、別のところに階段を設計した家の話もよく聞く。しかし、毎日顧客が来るわけでもないので、毎日の生活のことを考えると、喧嘩しても家族が必ず顔を合わせないとけない設計の方が家族が円満になれると思う。
木造の建物で本当に100年も持つのかって言うと、普通に建てられた家だと構造的に問題はない。今、住んでいる鎌倉でも100以上の木造建築物が多くある。最近、近所の人が家を建て替えることにして、解体をしたが、土地から皿の欠片が見つかってしまい、発掘調査をしている。調査をされている人に、どのような物が見つかったのかを聞いてみたら、鎌倉時代にはこの辺りは別荘地だったので、色々と中国からの物なども見つかっているという。今は普通のどこにでもある住宅街になってしまっているが、近所の土地にも色々と埋まっていると思われると言われてしまった。
鎌倉に残っている木造建築物や、最近建て直された家を見ていると、実際には、構造的に欠陥があって壊される家は少ないと思うようになった。無くなってしまった鎌倉時代の多くの建築物は、敵に焼かれてしまったといわれている。近所で建て直されている家の多くは、親が無くなったので土地を分譲して新しい家を数軒建てたり、子供が家を出て行かれたので、もう少し2人で老後を楽しめる家にするなどが多い。近所の家もまだ構造的に十分に住める家であった。
それでは100年も建っている家とそうでない家の違いはなにか?私は、米建築家のクリストファー・アレグザンダーの考えが正しいと思う。家に使われる木材や構造も家を建てる場合には重要であるが、家が100年残っているか、20年で壊されてしまうかは、実はその家を利用する人がその家を使いやすいと思っているかである。生活と調和した建築物は、人が生活の中で自然と利用して安心を感じさせられる。このような家だと、住んでいる人が家が生活の一部であるため、壁に穴があいたりしても何時も自然に家の修理をするようになる。
反対に10年や20年で壊される家は、建てられた時には良いように見えたが、実際に住んでいると生活に無理が出てくる。例えば家族が顔を合わせる必要がなく、別々の行動をしてしまう。最初はコンクリートなど新素材で問題がなかそうに見えるが、住みづらいと人はそんなに手を入れることがなく、自然に利用されてなくなっていき、人は家から離れて行ってしまう。最終的には、家を取り壊して、新しい家を建てることになってしまう。
600年も建っているお寺があるから、自宅をお寺のように建てても、その家は普通の生活には合わなく、数年で取り壊させる運命になってしまうでしょう。即ち、家はそこに住む人を想定して、その人達の生活の一部になるように設計しなければならない。
それでは、将来住む人と予測しなければならないのかっという問題がある。クリストファー・アレグザンダーが書かれているように、実は人間とは生き方のパターンがある。その生き方のパターンとはそんなに変わるものではない。住みやすい家とは、その生活のパターンを考慮して設計された家である。
コンピュータシステムやソフトウエアも同じように、長く残るシステム/ソフトウエアは将来でも利用者が自然に使えるように設計する必要がある。単に新しい技術や開発技法を取り入れただけでは、数年で入れ替えされてしまう。残念にソフトウエアパターンと言うと、間違って開発者が使う設計パターンと思ってしまう人が多い。実際のコンピュータ工学とは、コンピュータシステムのアーキテクチャをどのようにしたら、利用者が行う業務や生活のパターン(習慣)の一部にできるかである。
利用者が行う業務や生活のパターンを述べないで、ただ技術的にアーキテクチャを決めても、構築されてしまったシステムをしょうがなく使うことになるかもしれないが、置き換える機会がでたら直ぐに置換えられるようになってしまう。