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デジタルとアナログの間を行ったり来たり

ハガレンと三位一体

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 ハガレンこと鋼の錬金術師は前のテレビシリーズから気に入って見ている。今回のシリーズでは前のシリーズの先の話に踏み込むようになり、ますます楽しみである。

 ハガレンの面白さはいろいろとある。化学科出身としては錬成の理論はツッコミたくなるが、それはさておき、前のシリーズの時は生命倫理、少年たちの成長、宗教対立、軍組織の陰謀、自然の原理、人生哲学など、大人でもうなりたくなるような難しいテーマをふんだんに盛り込んであることに驚いたものだ。しかも見ていて楽しいし、引き込まれる。

 前回のシリーズ以降に単行本で原作を読み、結末への方向性がある程度見えてきたのだが、最近はたと気付いた。ファンも多いことなので、すでに気付いて語られているのかもしれないが、筆者にとっては最近の発見で、自分でも新しい魅力を見つけてしまったと思っている。

 それはキリスト教との関係。もちろん、もともと主要な敵となる人造人間らにはキリスト教の「7つの大罪(エンヴィー、ラスト、グラトニーなど)」の名前がついているのは有名な話だ。だが改めて意識するようになったシーンがある。原作で主人公のエドワードが手を合わせて錬成する姿を見て、東洋人のリンが「まるで神への祈りじゃないか」と気付いたところだ(単行本13巻)。

メトロポリタン美術館にて そう考えてみると、エドワードはいつも赤い上着を着ている。作中で「これがないと」と言って、わざわざ作り直したシーンもあるほどだ。赤い上着というのは、確かイエス・キリストの目印ではなかったか。伝統的な宗教画では赤い上着を着ているのがイエスで、青い上着がマリアというお約束があると聞いたことがある。昔は文字を読めない人も多かったので、文字で注釈を付けられないからそういう暗黙のルールがあるらしい。

 主人公がイエス・キリストの目印を付けていると気付くと、そういえばホーエンハイムという父もいる。といっても、どっちのかと突っ込まれると微妙だけど。だが、そうだとしたらイエスに弟がいるというのはキリスト教らしくない。

 いや、逆だ。肉体を失って魂を鎧に定着させてもらった、弟のアルフォンスを精霊と考えることはできないだろうかと気付いて、自分でも驚いた。これぞtrinity(三位一体)に合致するではないか。三位一体とはキリスト教で「神」と呼ばれる存在は3つの側面を持っていて、それらは息子であるイエス、それと父と精霊、これらはすべて「神」であり、3つは違うものではなく同じものを別の側面から見ているのだ、みたいな解釈というか概念だそうだ。おおっ、これは大発見ではないかと自分でもわくわくしてしまった。

 そして物語の大きな特徴には神の象徴を背負って立つ登場人物らは、賢者の石や人体錬成など人間の領域を超えようとしている。だが彼らを神と重ねるならいいのかもしれない。。。いや、本当にいいのかと考えると、もう突拍子がなさ過ぎて笑いたくなってくる。

 あまり深読みしてはいけないような気がするが、彼らを神と重ね合わせて見るとまた楽しめる。もちろん、軽いノリで。キリスト教のパロディ映画「ドグマ」くらいの悪ノリで。ハガレンの作者ならそういう画策を楽しんだりするのではないかってね。・・・でも、あまり大意はないから。念のため。

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