電影少女はよりリアルに
昨年末からわが家の団らんはすっかりリッジレーサー7である。最近PlayStation Storeで追加BGMが配信となり、これがきっかけでアーケード時代からレースゲームをしている家族がリッジの変遷を語り始めた。
となれば、シリーズを象徴するCGキャラ「永瀬麗子」は欠かせない。彼女が美しく成長していくさまを見ながら、ふと夫が話題を意外な方向へと移した。
「そういえば、『ロミオとジュリエット』ではレイブレーサーの曲がかかっていたよ」
説明が長くなるが、レイブレーサーというのは大ざっぱにいうとリッジレーサーの親せきのアーケードゲームで、「ロミオとジュリエット」(通称:ロミジュリ)というのはHアールカオスによるダンス作品のことである。レイブレーサー稼働開始が1995年、ロミジュリの初演が1996年、筆者たちがロミジュリを観たのはその翌年のことである(あまりに昔で気絶しそうだ)。
それで夫はレイブレーサーのサントラを発掘し、PS3でかけてみた。「たぶんこれ」という曲を聴いてみると、確かに、やや自信がないがそんな気がする。ついでに歴代のリッジレーサーサントラのジャケットを見ると、ロミジュリを1人2役で演じた白河直子氏は少し前の永瀬麗子氏になんとなく似ている。子猫のような細身の肢体もそっくりだ。
ダンスの方に話を移そう。このダンス作品は古典作品を現代向けにアレンジしているのが特徴だ。だが本質をうまく現代に投影している。物語は若気の至りといえる盲目的な恋、現実に立ち向かう強さが足りず奇策で障害を突破する計画だったが早とちりで身を滅ぼしてしまう悲劇だ。
原作ではジュリエットがひとたび死亡し(と周囲に見せかけて)、生き返ってロミオと新しい人生を始めるはずだった。これを現代版ではゲームに興じる若者がリセットキーで人生をやりなおすはずだった。
ロミオはゲームの世界を現実以上に愛する少年となりジュリエットは彼に選ばれた理想のキャラクターになる。(Dance Magazine 1996年6月号「劇的な電影少女」より。写真も)
ロミオがゲームに興じるシーンでは舞台にオープンカーを配置し、スクリーンに首都高を疾走した時の映像を流す。ゲームのキャラクターとなったジュリエットは(当時はやりの)セーラームーンの衣装を身にまとい、舞台を飛び跳ねる(再演によっては車種や映像が微妙に異なる)。
ゲームで失敗するとロミオはリセットボタンを押して最初からやりなおす。だが何度リセットボタンを押しても元には戻らない状況に陥ってしまう。コンピュータがウィルスに感染したのだ。ここから物語は幸せいっぱいな雰囲気から一転して暗雲が立ちこめることになる。
今から思えば初演から10年以上過ぎた今でも、いやむしろ今のほうがこの世界に近づいたと言えないだろうか。今ではアバターやセカンドライフなど、仮想世界で自分や理想のキャラクターは自由自在に姿を変えることができるようになった。CGがつくり出す映像は現実と見紛うほどである。そうした世界に慣れてしまうと「都合の悪いデータは保存せず、リセットしてしまえばやり直しがきく」と思いがちだが、現実との接点においてその罠にはまってしまうこともある。
10年前のメッセージなのに、今のほうがより強いリアリティをもって現代に教訓を伝えているように思えてならない。