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デジタルとアナログの間を行ったり来たり

もはや独り言ではない

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 ネットで誹謗中傷が問題になるとふと思う。コミュニケーションの手間が甚だしく簡略化されたネットでは、伝えてはいけないことまでうかつに伝わりやすいということを。

 特にどの事例というわけではないが、しばしば悪意に満ちた書き込みが問題になる。表現が残酷で凄惨を極めているとメディアで流布されてしまう。だが、よく見るとどこか絵空事のように現実味のない言葉の羅列もある。

 おそらく限りなく空想だからではないだろうか。仮想世界にいる仮想の敵に対する感情のような。一人で思い詰めると思考は反復され、感情は増幅されやすい。もし違うことに目が向けば気が散ることになり、悪循環から抜け出せる。だが、特に個室で長時間パソコンに向かっていると空想は壮大なものへと発展し、悪い感情はびったりと心の底にこびりついてしまうこともあるようだ。

 いっぽう「王様の耳はロバの耳」のように、人間はどこかで伝えたい衝動があるのかもしれない。内心で造りあげた世界を詳細に表現することや、または自分の感情に共感する声を聞きたくなることなど。そうして満足を得ようとする。だが、常軌を逸するほど悪化してから表出してしまうと厄介なことになる。

 当人としてはまだ内心の世界からさほど出ていないつもりなのだと思う。書き込みとはせいぜい紙に書いて自分だけで読み返す行為に近いのかもしれない。またはごく親しい友人との会話やその間で交換日記をしている程度の限定的なことと考えているのだろう。だが現実は違う。ネットに書き込んでしまったものは、たとえ小さくても新聞に掲載してしまったようなものだ。不特定多数が読める、そして残るということだ。

 現実は誰かに何かを伝えるにしてもそれなりの手間がかかる。相手と会える場所まで移動するとか、手紙ならあて先を書いて切手を貼ってポストに投かんするとかしなくてはならない。だから伝えてはいけないことなら、どこかで思いとどまる余地がある。実際に相手の顔を見ると言葉が喉から出ないこともある。だがネットでは歯止めがかかりにくい。「送信」ボタンだけですんでしまう。その手軽さがあだになっている。

 当事者にある無自覚さ、そして会得しきれていないものを思うと心苦しい。自分がネットに発信してしまったものは、もう独り言ではないということを理解しなくてはならない。そしてネガティブな感情を抱えた時にそれをうまく発散する術をまだ持たないこと、また思い詰める前に気軽に話せる生身の人間が不足していることも要因にあると思う。そこが気がかりだ。

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