スマート革命と芸術、人生を夢・幻に変えた「スナップチャット」は新しい写真芸術か、新しい瞬間充実消費か!!?
<序文>
米国のテックブログをあまた読んでいると書き手のクリエーターの中には芸術論や哲学などすばらしい教養の持ち主の方々が大勢います。
テッククランチのライターであるカナダのダレル・エサリントンさんもその一人です。彼の「スナップチャット芸術論」には感嘆している筆者です。
注)スナップチャットと言うのは、ウオール街の投資家筋がフェースブックに変わる新たなソーシャルメディアとして注目している写真メッセージサービスであり、その特徴は受け手が眺めた10秒以内に写真が消滅する点にあります。
従来の写真芸術とは「永遠に残り、歴史の試練を経て多くの人に展示されるもの」であるとされるのに対してスナップチャットの写真は瞬間に充実してぱっと散る「泡沫(うたかた)の儚(はかな)い桜の花弁」のような写真美だとエサリントンさんは述べています。(Beauty Of Ephemeral Photography)
また人生の一瞬をスマートフォンのカメラにより写真で切り取って、ぱっと輝かせてぱっと消える消費は、21世紀初頭のマーケティングで語られたデジタルな消費のあり方である「瞬間充実消費」(momentary consumption)を想起させます。
米国のテックブログの芸術論やマーケティング論には、一種の仏教美学の匂いすら感じられる深みがあります。
仏教の長い伝統を持つ日本からは何ゆえこう言ったサービスや議論が出てこないのでしょうか?それとも筆者が知らないだけでしょうか?
★★Snapchat And The Beauty Of Ephemeral Photography And Fleeting Creativity
<出所:スナップチャット>
<人生は無、夢(ゆめ)か幻(まぼろし)か?>
写真にしても小説にしても伝統芸術の考え方では「歴史の中で長く愛でられる作品」に「価値がある」とされてきました。すなわちゴッホやレンブラントの絵のように永遠に残るものが、価値のある優れた作品とされていた訳ですね。
しかし名の知れた小説も名画も写真も歴史の季節の暦が巡る中で多くがまるで「泡沫(うたかた)」のように次第に忘れ去られていきます。夏目漱石の猫なんて若い人は誰も知りませんよね。
一部に疑惑はあれ、カメラマンのロバート・キャッパは無名戦士の倒れる瞬間を写真に撮り記録に残しました。しかし多くの兵士の死はレマルクの小説「西部戦線異状なし」に示されているように「泡沫(うたかた)の儚(はかない)いもの」として写真や小説などの記録にも歴史にもまったく残らず消え去って行きます。
だから記録に残らない、スナップチャットのような、ほんの些細な出来事を一瞬カメラに収める行為、そしてすぐに忘れ去られるような行為も立派な芸術ではないかと言う「逆説的な新しい芸術論の主張」が米国から出てくるわけですね。確かに保存型のフリッカーやフェースブックの多くの写真もあっという間に人々の記憶から消えていきます。多くの新聞の報道写真もそうです。
これは一種の「人生=空」の発想であり、西田哲学の言う有即無、無即有の思想に近いと考えられます。消え行く無の写真にも無の価値はあると言うわけです。
伝統的なモノとして永遠に愛でられる写真は有の価値があり、スナップチャットの自動消滅写真には無の価値があり、両者は裏腹の関係(絶対矛盾の自己同一)と言う見方です。
しかし何故こういった新しい見方はスナップチャットのサービスとともに日本ではなく、北米から生まれてくるのでしょうか。
<瞬間充実消費>
「人生は夢幻のごとくなり」と言うのは有名な織田信長が好んで舞った敦盛の一節ですが、これも仏教思想です。21世紀初頭に広告代理店の博報堂は「デジタルの消費を瞬間充実消費」と発表しました。剝がせるタトウ、一日駅長さん、一日舞妓さん、クリスマスだけの恋人、(スキーの練習は嫌だけど)気分だけ味わうスキー、サッカーのゴールシーンだけ集めてみる楽しみなどが上げられており、テーマパークの流行や後のゲームでのアバターによる恋愛やホストクラブの消費につながりました。お絵かきツールのパワーポイントもこの流れです。
ぱっと没入してぱっと現実の日常に戻る消費ですね。
そう考えればスナップチャットは瞬間充実消費の一環である考えられます。
この手の哲学やライフスタイルを背景にスナップチャットが伸びるとすればフェースブックなど既存ソーシャルメディアもうかうかできませんね。
「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速の事も夢のまた夢」(秀吉)