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バルトーク「管弦楽のための協奏曲」にみる肯定的世界観

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交響作品の多くに、苦悩や悲しみを超えて、現実を肯定する明るい輝きをもって、全曲を閉じるような展開を持つものがある。ベートーヴェンの「運命」などはその典型だが、恐らくそれは彼らの世界観、あるいは願望といったものが強く影響しているのだと思う。

日本人的感覚(いや、個人的感覚かな?)からすると、手放しの歓喜よりも無常感に漂っているほうが救われる気がする。それは、あるものを受け入れる受容的な感性と、強い意思をもって現実を克服する感覚の違いか。

音楽文化的に西と東の接点にあるハンガリーの作曲家バルトークの作品は、東洋的な響きを持つ作品でありながら、それでもやはり西洋的な強い意思を感じる。晩年のマーラーのほうが、むしろ諸行無常感があるぐらいだ。

そのバルトークの晩年の作品、「管弦楽のための協奏曲」は、クーセヴィツキーの夫人の思い出にささげられた曲とされており、ある意味「レクイエム」であるといわれることもある。第1楽章51小節目からの悲劇的な旋律(譜例)や、第3楽章の旋律などを聴くと、確かに悲しみを全面で表現しているようにも感じられる。

しかし、第2楽章や第4楽章のユーモアのある旋律、そして最終楽章の躍動感あふれる音楽は、もはやそうした悲しみの中にはいない。この作品が、レクイエム的な意図をどのくらい持っていたかは分からないが、少なくとも、その構成にバルトークの西洋的な克服の意思を感じる。フィナーレは、そうした意思を表すかのように壮大である。

だが、実をいうと、このフィナーレは、最後の6小節を書き直し、20小節あまり拡張しており、それが、現在普通に演奏されている改訂版なのだ。中間部の主題が金管の荘厳な響きとして再現され、弦楽器の上昇音形が、陰から陽への昇華を明確に表すようになっている。

      

この改訂が施される前の版を聴いたことがなかったので、ちょっと楽譜を入力してMIDIで再現してみた。やはり40分あまりの作品の最後にしてはあっけない。改訂によって、作品に表そうとしていた意思が明確に補強されていると感じられる。表現方法に試行錯誤はあったものの、表現するべきもの、その方向性に迷いはなかったのだろう。

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