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【書評】『IBM 奇跡の"ワトソン"プロジェクト』

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年末年始で積ん読モードを解消中です。読書感想文が多くなってしまうと思いますがご容赦を。

で、今回は『IBM 奇跡の“ワトソン”プロジェクト: 人工知能はクイズ王の夢をみる』です。著者のスティーヴン・ベイカー氏は『数字で世界を操る巨人たち』などの著作がある方ですね。タイトルの「ワトソンプロジェクト」とは、もちろん今年はじめに米国のクイズ番組で人間を破って話題になった、IBMのスーパーコンピュータ"Watson"のことです:

IBMのスーパーコンピュータ「Watson」、クイズ対決で人間に勝利 (ITmedia News)

IBMのスーパーコンピュータ「Watson」対人間の3日にわたるクイズ対決は、Watsonの勝利に終わった。

米クイズ番組「Jeopardy!」で行われた対決の最終的な成績は、Wastonが7万7147ドル、クイズ王のケン・ジェニングス氏は2万4000ドルでブラッド・ラッター氏は2万1600ドルだった。

この"Jeopardy!"(本文中では「ジョパディ」と表記されています)という番組、ただのクイズではありません。詳しくはウィキペディアの記述を参照していただきたいのですが、単にクイズに答えるだけでなく、正解した場合の掛け金をどう設定するか、ボーナスチャンスをどう利用するか、あるいは他の解答者とどう駆け引きするか(クイズは同時に出演する3人で争われるので、相手のミスを待って優勝するということも可能)など、高度な戦略性が要求されます。さらに出題される問題文はウィットに富んでいて、人間でもネイティブスピーカーでないと勝つのは難しいと言われるほど。当初IBM社内でも「絶対に無理」という意見が主流派だったそうですが、本書を読めばそれが極めて真っ当な反応だったと実感することでしょう。

もちろんIBMという企業の中で技術の積み重ねがあったとはいえ、数年の開発でどうやってクイズ王に打ち勝つコンピュータを創造することができたのか。開発者やマネージャーとして働かれている方であれば、一種の「プロジェクトX」的な読み物として本書を楽しむことができるでしょう。絶望的な状況の中で開発を指揮したIBMのデイビッド・フェルーチ氏が、ついに「ジョパディ」出演の日を迎えた時に思わず涙を流すというシーンがあるのですが、苦しいプロジェクトを切り抜けた経験のある方ならその心情が痛いほど理解できるはずです。

一方で本書は、ワトソンというケーススタディを通して、「考える機械とは何なのか」「考える機械をつくるとはどうあるべきか」を考える最良の一冊となっています。その意味で昨日ご紹介した『謎のチェス指し人形「ターク」』にも通じるところがあるでしょう。

邦訳書の副題には「人工知能はクイズ王の夢をみる」とありますが、ワトソンが人工知能と呼べるかどうかははっきりとしていません。実はこの問題自体、本書が第7章「人工知能研究の現状とゆくえ」の丸々一章を割いて解説しているポイントであり、非常に奥が深いテーマと言えるでしょう。日本IBM東京基礎研究所の金山博氏と武田浩一氏は、日本語版解説の中でこう述べられています:

最後に、本書の邦訳タイトルにある「人工知能」について触れておきます。そもそも人工知能の定義ははっきりとしておらず、Watsonを人工知能と呼ぶべきかとうかは、受け手の判断に委ねられるとしか言いようがありません。質問応答システムに関する研究は、世界でも日本でも人工知能の一分野として捉えられ、人工知能(AI)の名を持つ学会で議論されていますし、人間と同じタスクを解いていることからも人間の知能の一形態を機械化していることは明らかです。一方で、Watsonの思考は人間のそれを模倣するアプローチとは全く異なり、もちろん人間のように直感を働かせたり感情を持ったりすることはありません。曖昧さという自然言語特有の問題をさまざまな観点から解決することは、非構造情報の世界を構造化された世界に落とし込むこと、すなわちクイズ番組の答えを求めるという問題を、掛け算などの数値計算、またはチェスの勝負になるべく近い形に転換することにより、コンピューターが扱えるようにする、という点においてこそ、今回の挑戦課題の本質なのです。

誤解を恐れずに言えば、ワトソンはジョパディというクイズ番組で優勝するために生まれてきたコンピュータです(もちろんその過程で開発された技術は他の分野で応用可能であり、ワトソン自体が次の「就職先」を探すというテーマも本書で解説されています)。そのために人間の思考回路とは違う思考回路で「考える」よう設計されており、例えば人間であればクイズ王並みの「知性」を持っていれば他のタスク(いまの時刻を答えるなど)も難なくこなせるはずが、ワトソンの場合はお手上げとなってしまいます。果たしてそれで人工知能と呼べるのか。呼称はさておき、一つのタスクに最適化されたエキスパート・システムを追求することが人工知能研究のプラスになるのか。しかもそれをIBMという影響力を持つ巨大企業が手がけて良いのか。問題は政治的・哲学的な側面も抱え、複雑に絡んでいるものであることを本書はは丹念に解説してくれます。

あるいは今後、知性や知能というものの定義の方が変化して行くのかもしれません。例えばその善し悪しは別にして、かつて算数や数学のテストといえば計算能力が大きな評価ポイントだったものが、計算機の普及によって「計算には計算機を使用して良い」という教育機関が登場してきたように。あるいはデンマークで、試験中にインターネットへのアクセスを許可する大学が登場したように。知性を構成する要素がいくつにも分解され、その中で機械が得意な分野では機械の進化が追求され、人間が得意な分野では機械の進化がゆっくりと促されつつも、人間の能力を最大限に発揮し、それを機械と組み合わせる方法が模索される――本書のテーマからは少し逸れてしまいますが、そんな未来もあり得るのではないかという感想を抱きました。

他にもワトソンの「顔」や「体」はどうあるべきか、そして「指」をどうするか(人間の解答者が不利にならないよう、ワトソンも解答の際には指で解答ボタンを押すように要求されました)など、ユーモラスなようで、実は人間社会に「考える機械」がやってきた時に問題となるテーマが無数に登場します。本書を読んで来たるべき未来を夢想する、なんて年末年始の過ごし方も良いのではないでしょうか。

IBM 奇跡の“ワトソン”プロジェクト: 人工知能はクイズ王の夢をみる IBM 奇跡の“ワトソン”プロジェクト: 人工知能はクイズ王の夢をみる
スティーヴン・ベイカー 金山博・武田浩一(日本IBM東京基礎研究所)

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